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1995年05月07日から2003年03月30日まで,RIMNETをホストとして,Alternative Toshi TAKADA | Intermittent Diary ― とぎれとぎれの日記帳… として書かれていたもの

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名前記入欄

そうですね。私も、主婦は恐ろしいです。というか、不思議な存在です。

ところで、この規則第1項の

  • 主婦は自己責任原則を知らない。全部ダンナのせいにする。

を「オヤジ」に適用するときは、

  • オヤジは自己責任原則を知らない。全部カイシャのせいにする。

とするのでしょうか。やっぱし(この場合、「カイシャ」は「ヤクショ」等に置き換え可)。

と、ここから帰納するに(別に帰納せんでも何でも以前から思っているのだが :-)、主婦が「ダンナ」というときに指し示されるものは、自分の配偶者である男性個人のことではなく、何やら正体不明な論理的存在、いわば、世帯とゆーか家族とゆーかを法人格化したよーなもののようです。

やはり結局、同根なのでしょう。

ちなみに、とある(非『主婦』な)女性は、「『主婦』が何らかの理由で名前欄への記入を求められた場合、そこに自分の名前ではなく旦那の名前を書く。あれは一体何なのか? 理解でけん」と申しておりました。たとえば地域の自治会関連などのものは特に顕著で、ほぼ100%そうなのだそうです。

私はこの話を聞いたとき単純に、ひょっとして世間の『主婦』な人は、名前記入欄があったとき、それが個人の名前を要求されているのか、それとも「(たとえば)世帯主」の名前を要求されているのか、それを常に考えて記入しなければいけないのだろーか、そりゃ大変だなぁ、とか思いました。

しかしよく考えてみると、たとえば自治会に加入しているのは「世帯」あるいは「世帯主」であるっという概念が正常なのかどーかもよーわからんし、さらに、仮に本当に「世帯主」の署名が求められており、かつ、その「世帯主」が旦那である場合、その配偶者であるところの『主婦』が「世帯主」の署名を代行してしまっていいんだろーかつーのも謎だし、そもそも「世帯主」っつーのが実は一番謎な概念だし、まったく世の中分からないことだらけです。

ちなみに、ここでいう「世帯」あるいは「世帯主」というものの意味不明さは、「厚生省」とか「防衛施設庁」とか「大蔵省」とか、あるいは、「○○局長」とか「○○課長」とか、あるいは、「○○審議会」とか、あるいは、「国」とか、そーいったものの意味不明さと同じものなのでしょーか、それとも違うのでしょーか。

「定年」間近になっても分からないことは山程ある人生です。

デジタル化の意味・テキストデータであることの意味

今日は研究会に行ってきました。この研究会に行ったのはこれが2回目ですが、なかなか味のある研究会で好きっす。

いろいろと味があったのですが、聞いててひとつ、はっ、とさせられたのは、文教大学の安田先生のお言葉。それは、去年のフランス核実験反対署名についてなのだけれども、曰く、

あるシンポジウム(?)で某氏が、インターネットで行なわれた核実験反対署名がいかに反響をよんだかを滔々と話していたが、私はそれに対してなかば皮肉にこう言った。「私なら、そういった形で自分の名前を載せるようなことは恐ろしくてできない。もしフランス政府にそのデータに利用され、例えばシャルル・ド・ゴール空港の入国審査で『好ましからざる人物』として入国を拒否されないとも限らない」、と。

(記憶に頼って書いているので、不正確です。申し訳ないです)

核実験に対する考え方とか、署名に対する考え方とか、それを利用されることに対する考え方とか、そーいったことは全ておいといてですね、この発言にはヤラレました。私も以前、例えばこんな風に「デジタル化されたデータの力」なんぞとエラソーに書いてましたが、これは完全に「目から鱗」でした。

そうです、やはりこれも「デジタル化されたデータ」の力です。紙に書かれた55299人の名前と、電子化されたテキストに書かれた55299人の名前の、本質的な違い。

そして、より重要なのは、「デジタル化されたテキストデータ」の力、という点です。現時点のテクノロジーでは、そのデータがテキストか否かも、本質的な違いとなります。

世の中、「通信革命」だの「インターネットがどーした」だの「CATVがどーした」だの言って浮かれてますが、この「デジタル化」とゆーものの意味について、皆、考えているのでしょーか?

そして世の中、「デジタル革命」だの「MPEGがどーした」だの「CGがどーした」だの言って浮かれてますが、この「テキストデータ」とゆーものの意味について、皆、考えているのでしょーか?

うむ。

異形のもの

テレビのニュースなんぞを、つらつら見ていると、どうにも理解できないとゆーか、見ていて堪えられない「異形のもの」を発見する。


その1:甲子園の応援スタンドの風景

あれは変だ。何をどうしたって変だ。あそこにいる人達は観客ではなくて応援のための装置なんだな。で、その「応援」も応援ではなくて単なる「型」、っつーか。ま、その中を一人一人見れば、本当にあれがしたくてしてる人もいるのだろーし、あ〜だり〜な〜ったく、でもこれやりゃ単位くれるっつ〜しな〜、仕方ね〜な〜、という人もいたりして、それなりに人間模様様々で面白かったりするんだろーけど。

で、その変さを私に見せてくれるのは、実はカメラの構図だったりするのだな。スタンド全体を引いて撮ってるときや、一人をアップで撮ってるときは、まぁ、それほど不思議には思えない。でも、20人とかがフレームに入る中途半端な引きの画がいけない。ポンポンで「V」とか作ってる個人が見えちゃったりして。実は、変を変に見せるも見せないもカメラアングル次第。自己喪失。

その2:田中角栄邸相続税物納で半減

田中角栄がどんな人だか、あの土地屋敷をどうのように手に入れたのか、あれ以外にどんな資産があったのか、私は全然知りませんが、死んだら半分没収ですか。やっぱしこの国には私としての人間は存在してはいけないのですね。法人のものだったら実質半減期は無限大だよな。公地公民、拡張される公、ちゅうか。

しかしそうして土地は切り刻まれていく。一度切り刻まれた土地を再び接合するのにどれだけのエネルギーを必要とするかは、我々は既に80年代に学んだ。熱力学の第二法則。

その3:TBS問題

TBSが何をしたのか、いったい何がいけなかったのか、私には全然理解できませんが、やはりあれは、ようやくスケープゴートが見つかったので、皆、嬉しくてたまらないのでしょうか? それとも、TBSがあんなことさえしなければ誰も死ななかった、と言って皆で安心したいのでしょうか? それとも単なるイジメなのでしょうか? どーにもよく分かりません。

ちなみに私は、血を飲んで救いが得られるか否かはその宗教内で決めることであり、それを外から非科学的だといって糾弾する弁護士は誤っている、という意見に賛成です。だからといって、殺されてもいい、とも思いませんが。国民の権利及び義務。


とかゆーことを公言する私は、その時点で世間から「異形のもの」と見做されるのですね。

異形は偉業で異郷に去れ、ちゅうか。意味不明。

hack’em


という訳で、WWWを手にしたことにより今や私はBBCにもなれるのであった(違うって :-)。あ、力武さん、ありがとうございます :-)。

しかしこれも一種のhackなのであろうか?

などとゆー強引な接続句とともに、「デジタルボーイ」(5月号)の特集『ハッカーの書誌学』を見て俺もやろっ、と思ったことを一発やってみるっす。寺本くん、私の日記なんぞを挙げてくれて、ありがとー。

とゆーわけで、勝手に寺本くんとデジボへの返書代わり、だ。 :-)


ハッカーの書誌学/SPLIT 4/「hack’em」

『免疫の意味論』

著=多田富雄,青土社,¥2,200 【BOOK】

自分自身が、なぜ、どのような仕組みで存在しているのか? 生命とは何か? ということを人間がハックしてきた経緯を生物学あるいは免疫学の観点から解説するこの本。この本の一貫したテーマとなっているのは、「自己」と「非自己」を区別するものは何か? という問題である。免疫学的には、「自己」と「非自己」とは互いに曖昧につながり、そして、「自己」とは行為の集合であり、その行為を規定しているものは内的および外的環境のみである、そうだ。いちおう一般向けに書かれてはいるのだろうが、それでもかなり難解なこの本、しかし、エイズ/エボラ/アレルギーなど、最近人間をじわじわを追い込んでいくものの正体について知りたければ読んでおいて損はないのかもしれない。ちなみに私は、イェルネが「現在」どのように受け取られているかを、この本を読んで初めて知った。が、私のような素人は、ネットワーク説の凄みに惹かれて止まないものがあるのも事実。

『精神と物質』

著=立花隆・利根川進,文藝春秋社,¥1,700 【BOOK】

この本はふたつのハックから構成されている。ひとつが(前書とも関連するが)利根川進が免疫と遺伝子の関連を実際的に解いていく経緯、そしてもうひとつが、立花隆のインタビュー行為である。前者。恐らくはこのインタビューでは略されているのだろうが、少なくともこの本に書かれている内容を読む限りは、彼が行なったことは「サイエンス」と呼ぶより、まさしく「ハック」と呼びたい行為である(もちろん尊敬をこめて)。そして後者。立花隆は、ノーベル賞を得た行為あるいは利根川進という人間の行為を、素人の立場から徹底的に切り刻み、その中身を調べ尽くそうとしている。これは他者が持つ「知」に対する明確かつ非常に強烈なハッキングである。どちらのハックも捨てがたい魅力のある書。

『ALTA VISTA』

http://altavista.digital.com/ 【WEB】

そして最後に『ALTA VISTA』(反則か、これは :-)。なにもハッキングは、著名ハッカー、ノーベル賞学者やジャーナリストだけの専売特許ではない。ハッキングなんて誰でもできる。今日も誰かが世界のどこかで、自分の興味も対象となるものを切り刻み続けているだろう。その対象が何であろうと、その行為はまさしく「ハック」である。そして今や、それら無数のハッキングの成果が共有され、ひとつの知の輪として繋がりつつある。ALTA VISTAは、この、人間が作りつつある壮大な「知」そのものをハックしようとする試みだろう。もちろんこの試みはまだ始まったばかりであり、決して完成はしていない。でも私は、これがヨチヨチ歩きであることを喜ぶ。なぜなら、前2書の領域は全く手が出ないが、ここなら自分が「何か」出来るだろうと自分自身を信じさせることが出来るから。


ハッキングというのは「非自己」に対する過剰な興味と好奇心のなせる技だ。そしてハッキングを極めることにより、その「非自己」を「自己」化したような幻想を抱く。しかし、やはりそれは幻想である。

あるいは「自己」をネットワークという「非自己」の大海に放り出してみる。そして放り出された大海で、網に絡まり、取り込まれ、「自己」と「非自己」の境界を見失い、途方にくれる。

大海で溺れた者は、また一人に、あるいは、一対一の関係に戻ろうとする。でも、もう戻れない。「自己」は「非自己」に規定され、「非自己」は「自己」の総体に規定される。それを見てしまった者は、自分自身の「自己」も、相手の「自己」も、実はそこには存在しないことを知るのだから。


無理ありすぎ。:-)

WWW特許

詳細は不明ですが、どうやらWWWを狙い撃ちした「潜水艦特許」が米国で浮上したようです。

これは、Ardneran Rekramrek という人がかなり以前に米国にて申請していた特許であり、

  • 計算機制御による文書の相互参照とその表示システム
  • 地理的に分散した資源に対する一意的名前付けシステム
  • データにその型を付与して受け渡すことによる文書以外のデータの表示システム

などが記されているものです。これからも明らかなように、HTML, HTTP, URL, Content-Type指定, Plug-inなど、およそ現在のWWWの基本となる技術すべてを包括的にカバーするものであるようです。

「潜水艦特許」とは、米国の特許制度に「出願公告」および「先使用権」が存在しないために、数十年の審査期間を経て突然成立する特許のことであり、その詳細は、以下の引用を見て頂ければと思います。

米国の特許制度は、これ以外にも出願公告と先使用権の有無に関して他の諸国と異なっている。出願公告というのは、出願の一定期間後にかくかくしかじかの特許申請が行なわれている、という事実を世間に対して公開する制度で、無駄な重複投資を防止することを目的としている(略)。一方の先使用権というのは、特許成立以前に(特許になるとは知らずに)それを使用していた人々を保護する制度である。

このところ、米国の発明家レメルソン(略)による自動車のワイパーに関する特許や、計算機制御による自動装置プロセス特許など、20年以上の審査期間を経て突然浮上した「潜水艦特許」が、それを古くから使用してきた企業を一網打尽にするケースが報告されているが、出願公告と先使用権制度があれば、このようなケースを防ぐことができるはずである。

(『カーマーカー特許とソフトウェア』,今野浩著,中公新書1278,73頁より引用)

今回、この特許が米国で成立したことにより、WWWに関連するシステムを商用利用する際には、Rekramrek氏に特許使用料を払う必要が生じる、とのこと(ただし大学などでの学術利用は除く)。

ちなみに、この特許が米国以外でも申請されている/成立しているかどうかは不明です。

さ〜て、こりゃ大変だ。WWWもこれで終わりなのか、なのか?


可能性の先送りの可能性

唯一の娯楽(ringoちゃんが死んでるんでリンク先が分からんよー)だった「NTT分割問題」ですが、結局また、先送りですねー。

しかし、この、「先送り」っつーのは何なんでしょーか? 「明日できることは今日やらない」教の信者であるところの私めとしましては、この「先送り」とゆーのは常日頃からの行動原理化してる訳ですが、私めの場合の「先送り」とは異なる、別の意味を持つ「先送り」とゆーのもある訳であり、この「先送り」は、それらどちらかにあてはまるものなのか、あるいは、第三種のものなのか、不明であります。

と、突然ですが、おとぎ話のコーナーです。

とある所で、とある問題が起こりました。そもそもはこの問題の原因となる決定がなされたのはn年前だった訳です。で、それにより、とある問題が顕著化したのが今年でした。そして、今年とられた解決は取り敢えず今年発生する問題のみに対処したものであるため、来年は更に別の問題が発生することが、ほぼ明らかとなっています。今年および来年起こるべき問題は、既にn年前から分かっていたにもかかわらず、どうやら、n年間、何も考えられていなかったよーな気もします。

たとえば、私めが、「明日でいいやー」といって予稿書くのをブッチしたばやい、結局、明日書くのも私であるからして、個人仕事量保存則が成り立つのでありますが、「n年後だからいいやー」といって解決をブッチしたお方は、そのn年後には別の部署で別の問題を生成されているのだからして、このばやい、全体としての仕事量は保存されるものの個人仕事量は保存されているのか何なのか、よー分かりまへん。

ちなみに、上のおとぎ話は、今回、「先送り」の対象となったNTTとは何の関係もありませんが :-)、これはワイルドカードであり、大蔵省にも厚生省にもどこぞの民間企業にもマッチするものであることも事実であります。


とかゆー話が1995年度の締括であっては非常に情けない3月31日、shigepやら寺本っちやら誰やら彼やら、とりあえず、卒業おめでとう!

そいえば私がn年前に新入社員だったとき、社員研修の講演者として(当時はまだ社長でわなかった)児島さんが来て、「これで君達は人生の可能性の半分を失った」と言い放って去っていきました。

shigepや寺本っちも、明日から、<http://www.xxxx.co.jp/><http://www.yyyyy.co.jp/>化することにより可能性の半分を失い、かつ同時に、<http://www.bu.com/><http://www.fuzzlolita.com/>化によって増強される訳っすね。

つーことで、ぢぢぃは明日から、可能性の可能性をワクワクと高見の見物させて頂くっす。(がんばれ、とわ言わないよん。^_^)V

あなたは肌が恋しいですか?

とゆーことであっちゃこっちゃバタバタしている今日この頃ですが、こないだ、面白い体験をした、というか、面白い話をしました。

曰く、「お年を召された」、否、「経験豊かな」研究者/技術者の方にとっては、WWWって、恐怖の対象というか、何だか訳が分からないけど凄そうなもの、なんだそうです。徘徊する妖怪、ちゅうか。

よく分からんけど凄いのだろう、と思うだけならまだしも、ちょっと調べてみると、これがまた、WWWってこんなに単純でこんなにツギハギでこんなにいい加減だということが分かり、なんでこんなものがこんなに「凄いもの」とされているのか、ひょっとしたら私の知らない「何か」があるのかもしれない、という疑心暗鬼に取りつかれてしまったらもう最後、恐怖はますます大きくなる、ちゅうか。

そりゃそうだよなぁ。

でも、多分、「こんなに単純でこんなにツギハギでこんなにいい加減」なだけのものだと思います。

でわ、なぜに「こんなに凄いこと」になってしまってるのだろーか?

この問題は、仕組みの善し悪しの問題ではなく、なぜに皆がこれほど、いわば露出狂的に自分が持っていた/持っている情報を放出しているのか(しかもタダで)、つー話になるのでわないっすかね〜。もはや技術の問題では全然ない、ちゅうか、なまじ技術に首突っ込んでると余計分からなくなる、ちゅうか。で、これに対する答えで説得力のあるものは、まだ見掛けたことがない。

そいえば、新聞社などの旧メディアまでが情報を放出してしまう理由については、こないだ「また、そのうち」と書いた『本はどのように消えてゆくのか』(津野海太郎著,昌文社)では、それは、「ある種の偽善なのだが、その偽善の底がなかなかに深いので、まるで本心のように見えてしまう。偽善ないしはヤセ我慢」(こーゆー極めて断片的な引用はよくないなぁ>自分)、と言われている。でもこれは個人についてはあてはまらないような気がするし、うーむ。

または、『インターネットが変える世界』(古瀬幸広・廣瀬克哉著,岩波新書432)的に言うと「共愉」っすかねぇ。う〜ん、これはそれなりに頷けるものがあるけど、感覚的にバチッと填らない。個人的に。

ついでにそいえば、WWW上の情報提供で真っ先に有料化に突っ走ったのは「エロネタ」っすね。すべてはX-ratedに牽引される、ちゅうか。ま、食欲と性欲は個体保存と種の保存の基本中の基本だからして、そりわ当然なのかもしれんけど。

そいじゃあ、世の中の露出狂的情報提出を支えているのも、「欲」なのかなぁ。名誉欲とか? (それは違うな、多分)

個人的には、『触欲』ってーのが結構説得力あり、かもしんない。まったく物理的な「触」ではなく精神的なものでもあるのだけれども、どこかしらに「肌」というものの存在を意識する「触」、ちゅうか。おう、そうか、インターネットは肌の延長装置だったのか!

あ、またなんかてきとーなこと言ってるな、俺。:-)

煽られるナショナリズム

80年代を振り返ることがイヤがられるのは、やっぱし、今が90年代だからじゃないでせうか。あと5〜6年もすれば80年代も「再評価」されるのでわ。って、あ、あと5〜6年したら21世紀だからして、世の中はそれどころじゃなくて20世紀の再評価で忙しいのか。あ〜、可哀想な80年代、ちゅうか。

とか思いつつ、「これは80年代の本なのかっ」とゆーことで"Mondo Computer" (アスキー)なる本を拾ってきた。これは80年代とゆーより75年〜85年の本っぽいなぁ。80年代後半は、まだ恥ずかしい盛りなのかもしんない。

えーなになに、サブカル,ニューアカ,スネークマンショー,デザイナーズブランド,MANZAI,アルファYENレーベル,ピテカン,TRA,テクノカット,宝島、お〜。

デザイナーズブランドといえば、今の人は洋服に金かかんなくっていいっすね〜、というのは、ぢぢぃの無知なるが故の世迷い言なんだろーかー。♪あんのぉころわ〜、うぅっ♪ ちゅうか。

この本には坂村健さん登場のTRON話もありですなぁ。相変わらず「Unicodeは文化破壊」とか言ってますが、あ〜、もうど〜でもいいっす〜、好きにしてください。しかし、たかが工業規格に破壊されるよーな文化なんざぁ、そもそも文化じゃねーよな、とか言うと怒られるんだろーか。でも、んなもんで破壊されるものならとっとと破壊された方が世のため人のためだよな〜。「早く破壊してくれ、Unicode」と言ってる間にUnicodeが破壊されちゃったら洒落にならんっすぅ。

Unicode破壊の一因といえばハングルのrelocationっすが(「32bit拡張」ちゅうのもあるな :-)、いったいどーなるんでしょうねぇ。

いったいどーなるんでしょうねぇ、といえばサッカーは「日本 vs. 韓国」と「イラク vs. サウジアラビア」ですか。ナショナリズムばりばりっすね〜。神が与えたもうた組み合わせっすかね〜。「にっぽん、ちゃちゃちゃ」、つーか。

しかし図書館とかでISOの規格書の棚を眺めていると、やっぱ、10646のブ厚さのみが際だってるよな。その「風景」から、やはりあの厚さは、何か間違ってるとゆーか、違うことをしようとしているような気がする。あ、10646の内容が腐ってるとかそーゆーことが言いたいんではなく、定めようとする対象が間違ってるよーな感じ。なんちゅーか、文法書とか六法書の中に一冊だけ{辞,事,字}典が混ざってるよーな違和感、とかいう分かったよーなことを言うと話が矮小化されそうなんで、やはりここは、「あの際だった厚さという」風景、とだけ言っておこう。

どっちかっていうと、そもそもその「違和感」は一体何なのか、というのを考えるべきであるかもしれないのに、その「違和感」をほったらかしにしたまま文化だの何だの言って、更には戦術としてナショナリズムを煽っちゃうような連中は、アーキテクトとしては信用できねーぜー、ちゅうか。

ま、その「違和感」はJISにおける0208や0212でも一緒だからして、その「違和感」をほったらかしにしたまま計算機でこーしてこーした文章書いてる人間(=俺)も、まったく信用できねーぜー、わはははは、ちゅうか。

にしても、この本の中での坂村さんの言葉、「アメリカのメーカーに言わせれば、OSもつくらないくせに、なにが漢字コードだ、漢字コードだけ言ったって聞かないよってことになる」。いや〜、こりわ極めて正しいな〜。あったりまえだよな〜、別にOSだけに限った話じゃなく。「おめ〜文句言ってるだけだろ、悔しかったら作ってみれ」、ちゅうか。

つー訳で、ナショナリズムを煽ってる場合じゃないのか、卑屈に押さえ込んでる場合じゃないのか、結論はないっす、まる。

proxyと著作権法第二十条第2項第三号および第四号

つー訳で、今週は"IPSJ Multimedia Japan 96"なんぞに行ってた訳ですが、そこで聞いたものの中で、ある共通項を持っていたのが、

  1. 日立さんのWWW Quick View System (これは発表ではなくエキジビジョンにて)
  2. 梅村さんとこのAutoref
  3. 沖電気さんのW3-PENSEE

でした。これらはどれも(最後のW3-PENSEEは明示的に言ってはいなかったみたいだけど)、いわゆる「proxyに附加機能を入れる」って奴。

今やデータは山程あって、「仕組み」もそこそこのものがあって、これで本当にいろんなことが出来るようになって遊びがいがあるよな〜、というのは共通認識なのだろうけど、そこで突然現れるのが著作権の問題。

proxyにとある機能を入れてオリジナルのデータを改変して、すなわちたとえば、画像を縮小して(前出1)、各単語に辞書へのリンクを埋め込んで(前出2)、英語から日本語に翻訳して(前出3)、それをユーザに提示するとき、これが、著作権法第二十条の「同一性保持権」を犯していないのか、というかより正確には(?)、それが同第2項第三号および第四号の例外規定に該当するのか、である。その条文を引用すると次のようになる。

 (同一性保持権)
第二十条 著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、そ
の意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。
2 前項の規定は、次の各号のいずれかに該当する改変については、適用しない。
(略)
 三 特定の電子計算機においては利用し得ないプログラムの著作物を当該電子計
算機において利用し得るようにするため、又はプログラムの著作物を電子計算機に
おいてより効果的に利用し得るようにするために必要な改変
 四 前三号に掲げるもののほか、著作物の性質並びにその利用の目的及び態様に
照らしやむを得ないと認められる改変

# あ〜、partial includeしたい(意味明白)。

と、今までなら、この手をことを言った後は、「どーせ決めるのは裁判官だかんね、俺らの知ったこっちゃないかんね」とか言い放って終わりなのだが、最近、『カーマーカー特許とソフトウェア』(今野浩著,中公新書1278)という本を読んでいたら、

裁判官の仕事は、法律に照らしてコトの正否を判断することではなく、その「当否」を判断すること、つまり、その時の社会の構成員の大多数が納得できる妥当な結論をいかにして法律に矛盾せずに導くか、である。

(上144頁囲み記事より、onlineでないものは突然大雑把な要約になってしまう、しくしく) とか書いてあった。へー、そーなんだ、知らんかった。

という訳でone of 構成員になって考えてみよう…

あ、だみだ、「知らんかんね」が身についてて自分で考えられん。う〜む。(-_-;

この件に関しては思考停止しいるにもかかわらず、とりあえず、「私的利用のための変更、切除その他の改変」は認めてもらいたい今日この頃。そりから、「変更、切除その他の改変」のための『装置を提供すること』と、実際の『行為』は、絶対に切り分けて欲しい。

って、ほんとはこれは、「複製」でも同じことを言いたいんだぜー。著作権上の問題をハードウェア(を提供するかしないかの判断)に押しつけるのは止めちくりー、つーか。DATとかDV端子とか。んなもん、とりあえず棚上げすればいいのに。通信カラオケを見よ、っちゅうか。あれ規制してたら、多分、CDが簡単に100万枚売れる状況もなかったんだぜー、というのは猿の後知恵だろーか。

話が全然別方向へ行ってしまった、かな。

でも、「同一性保持権」の問題が未解決であることと、『装置』と『行為』の切り分けができないということは、W3-PENSEE(やその他の翻訳機能付ブラウザ)は販売できないってことにならないか? 考えをめぐらせすぎなのかっ、ちゅうか。

と、ところで、たうぜんながらこの問題は、日本国内な著作権法だけでは何も解決しないのである。何せ相手は、いんたーねっとだかんね〜、へへん、ちゅうか。あ〜。(-_-;

甘いっ! という甘いのは甘い?

みどりちゃん、はもう古いのかっ、んじゃ、のりくん(失礼 :-)、もハマっている「大地の子」も終わってしまいましたね。しかしよく泣くドラマであるなぁ。

ということで、のりくんが、『誰か「大地の子」の1回から3回目のビデオ貸して下さい。見てないんです』とか書いてますが、これを読んだ全国35万人(嘘)の「大地の子」ファンからは、恐らく、「甘いっ!」ってな声が上がっていることでしょう(ほんとか)。

「ファン」にしてみれば、前回の放映を見逃したとか、是非もう一度見たいとか、そんなこんなで、今回は待ちに待った放映だったはずであるのだからして、今時そんなこと言ってるよーな奴ぁ甘い、と。

とかいっても、そりゃ、観たいもんは観たいときに観たいよなー。

昔っから思ってるんだけど、なんで、ラジオとかテレビの番組は、書籍のように、「その放送のコピーを2組、国立国会図書館に提出すること」とかになってないんでしょうか。国会図書館が使い物になるかという話はまたおいとくとして、ま、国会図書館でなくても、「財団法人 放送文化センター」(ぜってー既にありそうな名前 :-b)とかいうの作って、放送の複写をそこに収めさせるように放送法を改正して、当然その特殊法人のポストは…、とか、いかにも得意技っぽいんだけどなぁ(誰のじゃ :-b)。

しかし更に思うに、「放送」ってゆーのは、そもそも最初はすべて生放送だったとか、その昔はテープが高くて何度も使い回ししていたのだからして、これは記録可能なメディアだとは誰も思っていなかったのだろうなぁ。「紙」というか「本」は、「後に残すための」メディアであると同時に「配付のための」メディアでもあるのだからして、これはやはり驚異の発明っちゅうか、非常に特殊なもんなのであらう。

さて、「でぢたる(ねっとわーく)」っつーのは、どのようなメディアであるのだろうか、ほんとに「グーテンベルグ以降の革命的…」なんであろーか? なんてね。

P.S.
あ、久保さんに伝えてくれてありがとう>遠山さん。
あ、まだメールに返事書いてません、ごめんなさい>久保さん。

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