デジタル化の意味・テキストデータであることの意味

(1996/04/05)

今日は研究会に行ってきました。この研究会に行ったのはこれが2回目ですが、なかなか味のある研究会で好きっす。

いろいろと味があったのですが、聞いててひとつ、はっ、とさせられたのは、文教大学の安田先生のお言葉。それは、去年のフランス核実験反対署名についてなのだけれども、曰く、

あるシンポジウム(?)で某氏が、インターネットで行なわれた核実験反対署名がいかに反響をよんだかを滔々と話していたが、私はそれに対してなかば皮肉にこう言った。「私なら、そういった形で自分の名前を載せるようなことは恐ろしくてできない。もしフランス政府にそのデータに利用され、例えばシャルル・ド・ゴール空港の入国審査で『好ましからざる人物』として入国を拒否されないとも限らない」、と。
(記憶に頼って書いているので、不正確です。申し訳ないです)

核実験に対する考え方とか、署名に対する考え方とか、それを利用されることに対する考え方とか、そーいったことは全ておいといてですね、この発言にはヤラレました。私も以前、例えばこんな風に「デジタル化されたデータの力」なんぞとエラソーに書いてましたが、これは完全に「目から鱗」でした。

そうです、やはりこれも「デジタル化されたデータ」の力です。紙に書かれた55299人の名前と、電子化されたテキストに書かれた55299人の名前の、本質的な違い。

そして、より重要なのは、「デジタル化されたテキストデータ」の力、という点です。現時点のテクノロジーでは、そのデータがテキストか否かも、本質的な違いとなります。

世の中、「通信革命」だの「インターネットがどーした」だの「CATVがどーした」だの言って浮かれてますが、この「デジタル化」とゆーものの意味について、皆、考えているのでしょーか?

そして世の中、「デジタル革命」だの「MPEGがどーした」だの「CGがどーした」だの言って浮かれてますが、この「テキストデータ」とゆーものの意味について、皆、考えているのでしょーか?

うむ。


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