1996/09/26 (木)
先日の日記で、いわゆるひとつの『ホームページ』という言葉の定義議論について、
- ホームページ
- 自ら(勝手に)『ホームページ』と名乗っている画面のこと。
などと、いーかげんなことを書いたけれども、これについて、一度回真面目に書くことにしませう。
まず最初に、ちょっと脱線。
『ホームページ』や『インターネット』『WWW』などのこの手の言葉の定義について、ある「回答」が欲しい人(何らかの権威に定義してもらいたい人)は、今なら、「リーダーズ+プラス」を買ってくるといいっす。どれを見ても、まぁ、普通は文句のつけようのない、実に簡潔で素晴らしい定義が書かれているから。
実際、この「リーダーズ+プラス」のCD-ROM版(私が持ってるのはEPWING版。ひょっとしたら電子ブック版でも一緒かも?)用に追加されたらしいコンピュータ/インターネット関連の用語は、かなり感動的に素晴らしいっす(これ、誰が書いたんだろう?)。
または、TimBLの御託宣が欲しいなら、それでも良いし。
でもね。でも、思うにこの手の言葉の定義は、「回答」を見る(知る)もんじゃなくって、自分で考えていくものだと思う。だってほんとに昨日今日できたものだし、日に日に変わっていくもの、しかもその変化に自分が参加し得るもの、なんだから。
という訳で考えてみるです。
先の日記で引用した、古瀬氏の、
- ホームページ
- home page
- WWWで提供される情報画面のこと。最初の1画面だけをホームページというのだという説と、HTMLで表現されたすべての画面がホームページなのである、という説とがある。ハイパーリンクによってページのさまざまな箇所同士が結ばれるというWWWの特長から、私は後者の説を支持する。
という定義に対して、「意味不明」「ひどいですね」などとMLやNetNews上で発言している人々もいたが、私は、上の定義をズレていると思う人は実はズレている、と考える。
仮にここで『ホームページ』を、
- ホームページ
- a) ブラウザの開始時に表示されるページのこと
- b) ある組織・機関・個人などを代表する(入口となる)ページのこと
と一般的に定義してみよう。
例えばa)の定義の場合、この『ホームページ』は、誰でもいつでも、自分の好きなように、どこへでも定義できるものである。
またb)の定義においても、実はWWW的な構造においては「代表する」という概念自体が非常にあやふやなものである。例えば(多少意図的だとは思うが)、
- <http://www.brl.ntt.jp/~takada/>
- は「高田敏弘の『ホームページ』」であり
- <http://www.st.rim.or.jp/~takadat/>
- も「高田敏弘の『ホームページ』」であり
- <http://www.st.rim.or.jp/~takadat/id/>
- は「高田敏弘の日記の『ホームページ』」であり
- <http://www.st.rim.or.jp/~takadat/id/19960926.html>
- は「高田敏弘の1996年9月26日の日記の『ホームページ』」である
という言い方を、誤りであると決めつけることができるだろうか?
上のような言い方が誤りであろうとなかろうと、現実問題として、ページを作る側/リンクを張る側が、
「NTTのホームページ」
とすることも、
「NTTのホームページ」
とすることも可能なのだ。
つまり、すべてのページが平坦な空間上に存在し、それらがリンクによって結ばれるという構造上、すべてのページが何らかの『ホームページ』に*成り得る*ことだけは確かである。
結局のところ、『ホームページ』という言葉や概念それ自体が、分散自律環境やハイパーテキストというものに似つかわしくないものではないのか、というのが私の結論である。
<もう一度脱線>
そう、論理的には、すべてのページは平坦な空間上に存在するのだと思う。よくある「URLは短い方が恰好いい」とかいうのは、DNSとかディレクトリ構造といった『過去の遺物』の概念に囚われた考え方なのでは(勿論、インプリメンテーション的には、それらは依然として極めて重要なのだけれども)。だいたい、URLを手で打ち込むこと自体、『あってはならないこと』だよな。
</もう一度脱線>
という訳で、最初にいーかげんとか書いたけど、実はあの定義の中には、
インターネット/WWW的な世界において、「ホームページ」とか「代表する」とか「デフォールトの」とかゆー言葉がいかに無意味か
という警句がこめられていたのさん。
というのは真っ赤な嘘か、はたまた真実なのか、それは謎です、ちゅうか。:-b
# なんか今日はblockquoteが多いな。:-)
1996/09/25 (水)
最近続けて日記を書いてるのだけれども、とある事情によりrimnetの方のサーバに載せられません、きしょうめ。金曜日には何とかなるはずだけども、ほんとに何とかなるのかな?
さて、最近、DHUのFreeBSD 2.1.5R (MS-Windows95とのdual boot)にfvwm95を載せて遊んでたりするんだけど、これやってると、マジで今どっちにいるのか訳分かんなくなりますね。
にしても、やっぱUNIXは楽しいなぁ。
楽しいといっても、「これでいつでもどこでもコーディングできるぜい!」とか言ってる割には日がな一日.Xresourcesや.fvwm2rc95いぢって遊んでたりして、98%くらい無意味なんだけど。:-)
でも、やっぱUNIXは楽しいなぁ。
でも実は、こーして使っていれば使っているほど、何つーか、いわゆるX Window System (環境)の古さとゆーか寂しさをひしひしと感じてしまいます。いわゆる世間一般のUNIX/Xパワーユーザ達が『Windows95+TeraTerm+バックエンドのUNIXマシン』という環境にゴロゴロと転んでいく気持ちが良く分かる、ちゅうか。
確かにやはり、現時点での理想の環境を考えてみると、机上には、
- 速いx86マシン
- 実際は今やCPUなんぞは何でもいいんだよな。単なる好みだと、PDP-11系かR3000系だけど。:-)
- Windows95
- 超高級ディスプレイ
- でも私は、計算機のモニタ用途の場合は、トリニトロンはキライなの。最近の、他所の*トロンものはどうなのだろうか?
- 好きなキーボード
- あ、unnaturalなキーボードの話、まだ書いてなかったな(ネタネタ :-)。
- 好きなマウス
- とりあえず私の使い方(ウィンドウ操作が殆どで、1ドット単位で絵や図を書くことは稀)の場合は、絶対、LogitechのMouseMan Cordless. 一度使ってみるとマウスの尻尾がいかに邪魔か分かるっす。
で、ほとんどの作業はそれでこなして、んで、裏には、
- UNIXマシン
- これには何が良いんだろう? 何でも良いんだろうけど、SUNでSUNOS 4.1.xを使うのだけは、今や間違いだと思うぞ。
っつーのが絶対に正しいよな、現時点では(でも一寸先は闇 :-)。
ノートの場合はなぁ。dual bootの95とFreeBSDはネットワークで繋がんないからなぁ(当たり前)。あ、ノートの中に計算機が2セット入ってて、それぞれで95とFreeBSDが動いてればいいのか。って、そりゃ無理だから、となると、WinシミュレータとかBOW 1.5とかの路線かなぁ。それもイマイチだなぁ。
とクダらないことをウダウダと書いてますが…
にしても思うことは、計算機の、というか、ハードウェアとソフトウェアの進歩だね。
一番最初にSUN (1.5だったなぁ)でSunView (で良かったっけか? 名前)を使ったとき、「UNIXとウィンドウシステムって、なんて相性悪いんだろう」とか思ったもんだよな。あれでプログラム書いてると、「こんな理不尽(?)なことがあっていいのか〜」とか思ったけど。
そんな頃、しばし経って現れたX Window Systemの発想っちゅーのは、まぁ、分からんではないけど、なんか、理想主義的過ぎ、っちゅうか、机上の空論、っぽく感じられた、というのは極めて個人的感想だったけど…
それが今や、こんなノートごときでもXがサクサク動くんだからなぁ。偉大だなぁ。
これは勿論ハードウェアの驚異的進歩があってこそなのは確かだけども、実はそれにも負けず劣らずソフトウェアも進歩してるはずなんだよな。設計法とかアルゴリズムとか言語とかライブラリとか環境とか。
でもなんか、ソフトウェアの進歩って、見えるようで見えないとゆーか、目立つようで目立たないとゆーか、なんかあましムクワレていないような気がするのは、ソフト屋のヒガミでしょーか、とか。
あ〜、なんか、結論がねーな、この話。:-)
という訳で、今作った、今日の結論。
近年のハードウェアとソフトウェアの驚異的進歩により、今や、Microsoft社でもWindows95のごとき素晴らしい環境を作成することが可能になったのである。
ちゅうか(上の文の解釈は各自にお任せします :-)。
1996/09/24 (火)
この連休は、こんなときぁ寝てるに限る、ということでひたすら寝てたら流石に腰が痛くなりました。
という無茶苦茶強引なフリ :-) のもと、「腰」の話です。
腰は腰だけで成り立っているわけではなくて、当然両足と腹との連携プレーで成立している。
ということを実感したのが、過去唯一「整体」なるものに試しに行ってみたときでした。
私はちょっと猫背とゆーか腰が前傾してるとゆーか、いわゆるひとつの「姿勢が悪い」とゆー奴なのですが、その整体に行ったとき、お医者さん(整体士?)の人に、バキバキッ・メキメキッ、でわなくて、グリグリ・ゴリゴリとされた結果、これが実に見事に正しい姿勢になったのでした。
それでメデタシ・メデタシかとゆーとこれがなんとそーでわなくて、整体の結果矯正されるのは、骨というか関節というか、要は、背骨と骨盤の位置関係だけなのですね。
で、その新たな位置関係に筋肉が追従しないのです、これが。
つまり、
- (矯正の結果得られた)骨的に『正しい』姿勢でいると、背筋(と腹筋)が筋肉疲労でしょうがない
- 筋肉的に『楽な』姿勢でいると、骨がきちんと収まってないような何とも言えない不快感があってしょうがない
ということで、ありゃもう、ほんとに辛かった。
で、結局どーなったかというと、筋肉を鍛え直す間もなくどっちつかずでいる内に、骨の方が元の位置に戻ってしまったとさ、まる、ちゅうか。
ともかくあれは、人体の神秘を感じた2週間(くらいだったかな?)でした。
P.S.
日記のネタ、というのは、とっておくと、印象が薄れてただの水になってしまうのもあれば、熟成が進み過ぎて酢になってしまうのもあり、なんか不思議なもんですなぁ… という訳で今日のネタは、ちょっと水ぎみ。:-)
1996/09/23 (月)
日記界でも、近藤さん[9/17][9/18]やのりくんが書いている尖閣諸島抗議メールですが、今日また、新手が届きました。3番目の奴です。ヘッダの日付を見る限り、送信されたのはより以前だけど余りのデカさに配送されるまでに時間が掛かった、というのが正しそうですが。ともあれ…
I’ve have received the following E-mails during last week.
I have no comment on this topics but have some questions to you.
Why did you fake your E-mail addresses?
You should be ashamed to say "Diaoyu Island belongs to Chinese", shouldn’t you?
Do you want to protest against or play pranks on me?
- From: The Chinese <chinese@diaoyu.protection.hk> (15KB)
- From: The chinese <chinese@diaoyu.island.cn> (7KB)
- From: fuck-you@ms1.hinet.net (2306KB) ;Very huge! Be careful to click
(Note: Some "Received" headers and "To/Cc" fields are suppressed by me.)
ということで、のりくんも書いてるように、こうしておけば、ロボット君が勝手にこのファイルを持って行ってくれるんで、もし誰かが"Diaoyu Island"で検索をしたとき、この頁がその人の目に触れることも可能な訳ですね。偉大だなぁ。
まぁ、英語で書いた部分の他は別に何も言うことはないんですけどね。でも、「尖閣諸島」でも「北方領土」でも「南沙諸島」でも、日本でも中国でもロシアでもベトナムでもフィリピンでもインドネシアでもマレーシアでも、何でもいいんですけどね。この手の『固有の領土』という概念は何か嘘くさい、というのが私の正直な気持ちです。
例えば、
For thousand years, the Diao Yu Island have been a part of China.
(from <http://www.hkinternet.net/diaoyu/engindex.htm>)
とか言われても、"thousand years"ねえ…、で、そのばやい"China"って何? "元"や"清"も"China"のうちなのね? ふ〜ん、とか(てなことを言うと紛糾するのか)。
もし仮に日本に属すると主張するとしても、そこにおける「日本」というものは「琉球」以外のなにものでもないよな。え、北方領土? 先住民族は? とか。
こーゆーのを『問題を逸らす』というのでしょうか。しかし別に私にとっての「問題」は、最低、そこら辺くらいしかありません。
ということで、最後にもうひとつ『問題を逸らし』て、今日の日記を終えることにしましょう。
<日本国官憲の方々へ>
上のメールは全て、私の意図とは何ら関係なく、(恐らくは国外から)私のメールアドレスを含む多数の人へ送り付けられたものです。例えば3番目のようなメールに関して、
- このようなデータを送付されたこと
- 送付されたデータをディスクに置いていること
- 送付されたデータを削除しないこと
- 送付されたデータの再閲覧を可能にすること
等の行為は法に触れることなのでしょうか? もし仮に触れるとすれば、どの行為がどの法律にどのように触れるのでしょうか? ご教示頂ければ幸いです。
とかね。
1996/09/21 (土)
前注:私は東京生まれの東京育ちです。2年前に神奈川県に来るまではずっと東京都在住でした。
昨日、最後に書いた話ですが、これについてはまだ頭がまとまってないので、今日は小ネタで攻めます。:-)
東京の人間としてずっと不思議に思っていることの一つは、なぜ、関西の人々には『関西』という概念がないのだろうか? ということです。
私からみれば、どうみても彼/彼女らの頭にあるのは、「大阪」「京都」「神戸」「奈良」などといった個別の概念のみであり、「関西」という概念は存在しないとしか思えません。これは箱根の先の人間にとっては、謎です。
翻って自分を見てみて、そいじゃ、「関東」とか「首都圏」とかいった概念が本当にあるのか? と言われると若干不安にはなりますが、少なくとも、関西人(ほら、イヤな言葉でしょう :-)の「関西」概念の無さよりかは、マシなのではないかと思います。
んで、さらに翔んでみるに、実は、「アジア」という概念も実体のない幻想だったりするのでしょうか? まぁ、「アジア」というのは広過ぎますから、「東アジア」でも何でもいいのですが、結局、巷間言われるところの「アジア」というものは存在しないのでしょうか?
このように東京人が「関西」と「アジア」という概念を対比させること自体、結局、自分で"non-Japan-Asia"を肯定していることになるのでしょうか? とか。
存在し得ない概念を無理に作り出す必要もないのですが、例えば、今後、『サッカー・ワールドカップ・アジア予選』なるものでナショナリズムを高揚する過程で、「アジア」というものが生まれてくるのでしょうか。
# あ、この段落意味不明ですね。思いついたまま書いただけで、自分でも意味不明です。:-)
「英語化」でも「日本化」でも「国際化」でも「中華化」でも「アジア化」でも何でもイイですが、我々、というのはいかんですな、もとい、私はどこへ向かえば良いのでせうか?
1996/09/20 (金)
いや〜、しばし「停止」してました。ふ〜。
さて、再開にあたりどのネタを書こうかな〜、と思ったのだけれども、やはり、これからいこう。マルテ日記、夏生さん、再びマルテ日記、力武さん、と続く英語ネタだ。
最初に断わっておくと、別に私は英語が完璧に出来る/全く困らない、なんて言うつもりは毛頭なく(実際困りまくりだし ;o;)、こいつぁ、ほんとぉぉぉに頭の痛い代物です。ですから、私の場合は力武さんの異様に濃い日記 :-)とは異なり、非常に単純な話です。
まぁ、考えてみれば、言語というのはすべからく底無し沼のようなものであって、たとえ母国語の日本語であっても、「きちんと書く」「きちんと喋る」とことを実現するのは見果てぬ夢である。ましてや非母国語でわ…。であるし、個人的には、この手の場合の『英語』というものは『英国語』でも『米国語』でもなく、単なる共通言語というかEsperantoというか手段というか、いわばまぁsmtpみたいなもん(何じゃそりゃ)で、「通じりゃいいんじゃ、おりゃ」、という開き直りの下、まぁ、悩んでいるなりにも、結構、お気楽極楽なこの私。:-)
で主題だが、smtpというからには、やはり「最初に"HELO"と言う」とかいう手順があったりする訳で、この手の最低限のプロトコルくらいは何とかしろよな、おめ〜ら、と言いたくなることもしばしばある今日この頃、ちゅうか。
何とかしろよな、なのは「おめ〜ら」だけじゃなくて、実は例えば、
『降りま〜す』
(英会話、その一言が話せない)
とかいうTV-CMがあったりするように、あの手の、ほんと最低とゆーかタチの悪い煽りの方を何とかした方が良いのかもしれないけど。
『降りま〜す』については、実際、『降りま〜す』に相当する英語は何て言えばいいのか私ゃ分からんし、もしそれが分かったとしても、『降ります』=『道を空けてください』というのが万国共通である保証は全くない(というか0に等しい?)し。結局、んなもんは、"Excuse me" でいいんだから。
ということで久々に日記を書くので構成(んなものがあったのか :-)がまとまらんので、結論を書いてしまえば、やっぱし、せめて最低、
- Excuse me
- Please
- Thank you
の使い方くらいは知っとけよな、おめ〜ら、ちゅうか。
でも実は、これは『使い方』以前の問題で、本当に日本人って、これ、言わないんだよな。
「日本人が皆、"Excuse me", "Please", "Thank you"をちゃんと言うようになれば、それだけで海外での日本人の評判は少しは良くなるだろう」って書いてたのは、(たしか)森瑶子さんであり、今日の日記もそのパクりなのだけれども、でも実際、ほんとに、そう思う。この3フレーズだけじゃなくて、挨拶もロクにしないしね。あれじゃ評判云々以前の問題であろう、と思う。
という訳で話ヨレまくりではあるが、単語や文法や表現なんて問題以前に、もちっと何とかならないのかねぇ、とか思う今日この頃である。
とかいうことを書いたりしても、嫌われるんでしょうか、やっぱし。「ケッ、偉そうに」とか。:-)
P.S.
言語、とはちょっと外れるけれども、力武さんの別の日の日記から坂本龍一氏のツアー日記に繋がる、『英語』『中華/華人』『日本(人)』『韓国(人)』の話も、わたし的には非常に重要であり、その内なんか書きたい今日この頃。慶應のW3Cアジア地区ホストは何故にアジア地区ホストか、とか。むつかしいよな、ほんと。
1996/08/25 (日)
杉山さんの日記(8/22)にも書いてあるけど、てな訳で、あちこち、「ホームページによる情報提供停止」だの「電子メールの送信停止」だの、エラいことになってますな。
ホームページの例でいうと、例えば、こことかこことかこことか(この選択に恣意がある訳ではありません)。
# あ、旬のモノなんで後からこの日記を読んでる人はクリックしても無駄っす。
その割には、日曜劇場も不思議発見もワーズワースもやってんじゃねーの?、とかゆーことは、他人が口出ししても大きなお世話なので割愛させて頂きますです。
んで、この状況を見て思ったこと3つ。
その1.
今や本当に、WWWや電子メールとゆーものはメジャーなものというか認知されたものになったんだなぁ、という感慨。どちらも、こーいった状況で何の戸惑いもなく明らかに明確に停止の対象となるんだなぁ。確かに企業の活動であることは当然なのだけれども、それが当然であるということが本当に今までは当然だったのだろうか? と思えども、でも今は、とーぜん、当然なんだな、とか。
その2.
やはり、個人としてネットワーク接続が必要な人は、個人としてネットワークに参加すべきなんだね。今回のこの出来事を機に、個人は個人として接続する人が増えるのかもしれない。実際、私も、最初にRIMNETにアカウント作って、なおかつそこでページ上げた時は、結構人から言われました。「また何で?」、「別に平気なのに」、とか。面倒くさいから笑って誤魔化してたけど、私は私なりの思想や見切りがあったのさ〜 :-b。でもそれが「何で?」ではない時代も、もうすぐそこかもしれない。古き良きいんたーねっとはまたひとつ遠くなりにけり、ですな。へへ(含意)。そー言ってる自分も、いーかげん、私的なML関連は移さんといかんのだけれどもぉ…
その3.
そして、やはりWWWはこのようなときに『止めることが可能な』メディアである(これとはニュアンス違うけど)、ということが実証されたこと。しかし、かといって他人のcacheの中身やローカルファイルにセーブされたデータを消すことができる訳でもない。URL自体の流通は止まりようもない。WWWとは、放送なのか配付なのか伝達なのか蓄積なのか。ほんとーによく分からん代物である。
と色々と考えさせられる今日この頃でございます。
誰も彼も、当然私も、他人事ではないのだよな、これが…
1996/08/24 (土)
『バベルの塔』などといっても、言語の話とかをする訳ではありません。
諸般の事情により現在私、ケーブルに悩まされている今日この頃でありますが、一体この状況は何なのでしょうか。
Dsub25ピン, Dsub9ピン, Dsub15ピン, ミニDIN8ピン, HD15ピン, 13W3, BNC, DIN5ピン, ミニDIN6ピン, ミニDIN4ピン, 40ピンコンパクト, 34ピンコンパクト, 50ピンコンパクト, アンフェノール50ピン, ハーフアンフェノール50ピン, ハーフピン50ピン, RJ-45, RJ-11, MMJ, Dsub50ピン, HDI30ピン, …
わしわもうイヤっす。
一体我々は何をしたというのでせう? 神は何をお怒りなのせうか? あそこにそそり立つフルタワーのケースがバベルの塔だとでもいいたいのでしょうか。
神よ、我々をお許しください。ちゅうか。
1996/08/20 (火)
しかし、今日のNEWS 23でやってた「フロンティア神代」の話の内容って、ちょっと前の『プレジデント』に載ってた記事(取材/文:鎌田慧)と内容が瓜二つだなぁ。さてこれは、
- 取材に応える神代社長が同じことしか言わないので同じ内容になった
- 実は"NEWS 23"のあのパートのブレーン(?)が鎌田慧氏である
- "NEWS 23"は『プレジデント』の記事をパクってきただけ
- 実は更に元ネタがあって"NEWS 23"も『プレジデント』も同じものをパクってきた
のどれでしょーか? と言っても私が答を知っている訳ではありません。
しかし、瓜二つ、といえば、最近、瓜なんて見掛けなくなりましたねぇ。瓜どころか、いわゆる昔の「プリンスメロン」も無くなっちゃったよなぁ。なんか最近のメロン系は怪しくてよく分からん。昔は、網が付いてるのは本当に高いメロンだけだったぞ〜、ちゅうか。
更にしかし、瓜、といえば、西経由で日本に伝来した「西瓜」と東(亜米利加)経由で日本に伝来した「東瓜」とが交配して日本風のスイカができた、っちゅう話は、何か出来すぎだなぁ。スイカ around the world,ちゅうか。
around the world,といえば、そーゆー意味で、西経由でものが来ないというか、西経由で来るものが重要視されなくなったのが、最近の敗因かもしれない、などとメタなことを言ってもほとんど無意味っすね。
う〜む、しかし、最近益々文章をまとめて書こうという気がなくなってきてるなぁ…
ということでまとまらずついでに書いてしまうと、今週から夏休みな筑紫さんといえば、多事争論の「クリック文化」ですね。
「本を読む」とは、どのような行為を指して言うのだろうか? 「活字を追う」ことだろうか。「ページをめくる」ことだろうか。「テキスト(文字列)を読む」ことだろうか。それとも、「内容を得る」ことだろうか。
「コンピューター」であろうが「テレビ」であろうが「本」であろうが、どれも所詮は、瓜二つでもあり、全く異なるものでもある。
などと、やっぱしメタなことを言っててはしょうがないな。
メタを捨てよ、コーディングしよう。
ちゅうか(大謎)。
1996/08/19 (月)
今日、Walnut CreekからFreeBSD 2.1.5Rが届きました。うしししし。
しか〜し、既に外側の包みは一旦開封されてあり、その後は"POST JAPAN"と〒印の顔したあの人(何ていうんだ? 絶対に名前付いてるはずだよな。郵便番号君ちゅうか)が印刷されたテープでとめてありました。んで、包みには、「横浜税関横浜外郵出張所」という印と、『開披』という印が、すぽこんと押されていました。
そぉか〜、「郵便」でも開封されるのかぁ。CD-ROMに関しては全部開けてチェックしてる、っつー噂は本当なのだろうか? 確かに今回は、税関用の緑のシールに真面目に"Computer Software on CDROM"って書いてあったからなぁ…
でも、包みを解いてみるとCD-ROMのケース自体のシュリンクパックはそのままだったから、CDの中身までは調べられていないんだな。ひょっとして「FreeBSDはOK」とかいう知識が税関に蓄積されているのだろーか。そいえば、その昔、「"X Window System"のCD-ROMはその名前が故に税関で中身を調べられる」、とかゆーまことしやかな噂もあったなぁ。
でもなぁ、いくら横浜税関横浜外郵出張所の人が頑張っても、ここで、これクリックすれば、って… やめなさい、そーゆーことわ>自分。:-)
ま、何わともあれ、わざわざの御開披、お疲れさまでございます>横浜税関横浜外郵出張所の皆様方、ちゅうか。:-b
しかし、それより何よりそんなことより、重要なのは、FreeBSDが存在すること自体に感謝すること、もっと正確に言うと、FreeBSDに限らず、現在これらのものが存在するに至る過程の全ての文化・環境・人に祝福あれ、ってことだろうか。
そろそろcontribしないと… (自戒)