ホームページ再考

(1996/09/26)

先日の日記で、いわゆるひとつの『ホームページ』という言葉の定義議論について、

ホームページ
自ら(勝手に)『ホームページ』と名乗っている画面のこと。
などと、いーかげんなことを書いたけれども、これについて、一度回真面目に書くことにしませう。


まず最初に、ちょっと脱線。

『ホームページ』や『インターネット』『WWW』などのこの手の言葉の定義について、ある「回答」が欲しい人(何らかの権威に定義してもらいたい人)は、今なら、「リーダーズ+プラス」を買ってくるといいっす。どれを見ても、まぁ、普通は文句のつけようのない、実に簡潔で素晴らしい定義が書かれているから。

実際、この「リーダーズ+プラス」のCD-ROM版(私が持ってるのはEPWING版。ひょっとしたら電子ブック版でも一緒かも?)用に追加されたらしいコンピュータ/インターネット関連の用語は、かなり感動的に素晴らしいっす(これ、誰が書いたんだろう?)。

または、TimBLの御託宣が欲しいなら、それでも良いし。

でもね。でも、思うにこの手の言葉の定義は、「回答」を見る(知る)もんじゃなくって、自分で考えていくものだと思う。だってほんとに昨日今日できたものだし、日に日に変わっていくもの、しかもその変化に自分が参加し得るもの、なんだから。

という訳で考えてみるです。


先の日記で引用した、古瀬氏の、

ホームページ
home page
WWWで提供される情報画面のこと。最初の1画面だけをホームページというのだという説と、HTMLで表現されたすべての画面がホームページなのである、という説とがある。ハイパーリンクによってページのさまざまな箇所同士が結ばれるというWWWの特長から、私は後者の説を支持する。
という定義に対して、「意味不明」「ひどいですね」などとMLやNetNews上で発言している人々もいたが、私は、上の定義をズレていると思う人は実はズレている、と考える。

仮にここで『ホームページ』を、

ホームページ
a) ブラウザの開始時に表示されるページのこと
b) ある組織・機関・個人などを代表する(入口となる)ページのこと
と一般的に定義してみよう。

例えばa)の定義の場合、この『ホームページ』は、誰でもいつでも、自分の好きなように、どこへでも定義できるものである。

またb)の定義においても、実はWWW的な構造においては「代表する」という概念自体が非常にあやふやなものである。例えば(多少意図的だとは思うが)、

<http://www.brl.ntt.jp/~takada/>
は「高田敏弘の『ホームページ』」であり
<http://www.st.rim.or.jp/~takadat/>
も「高田敏弘の『ホームページ』」であり
<http://www.st.rim.or.jp/~takadat/id/>
は「高田敏弘の日記の『ホームページ』」であり
<http://www.st.rim.or.jp/~takadat/id/19960926.html>
は「高田敏弘の1996年9月26日の日記の『ホームページ』」である
という言い方を、誤りであると決めつけることができるだろうか?

上のような言い方が誤りであろうとなかろうと、現実問題として、ページを作る側/リンクを張る側が、

NTTのホームページ
とすることも、
NTTのホームページ
とすることも可能なのだ。

つまり、すべてのページが平坦な空間上に存在し、それらがリンクによって結ばれるという構造上、すべてのページが何らかの『ホームページ』に*成り得る*ことだけは確かである。

結局のところ、『ホームページ』という言葉や概念それ自体が、分散自律環境やハイパーテキストというものに似つかわしくないものではないのか、というのが私の結論である。

<もう一度脱線>
そう、論理的には、すべてのページは平坦な空間上に存在するのだと思う。よくある「URLは短い方が恰好いい」とかいうのは、DNSとかディレクトリ構造といった『過去の遺物』の概念に囚われた考え方なのでは(勿論、インプリメンテーション的には、それらは依然として極めて重要なのだけれども)。だいたい、URLを手で打ち込むこと自体、『あってはならないこと』だよな。
</もう一度脱線>


という訳で、最初にいーかげんとか書いたけど、実はあの定義の中には、

インターネット/WWW的な世界において、「ホームページ」とか「代表する」とか「デフォールトの」とかゆー言葉がいかに無意味か
という警句がこめられていたのさん。

というのは真っ赤な嘘か、はたまた真実なのか、それは謎です、ちゅうか。:-b


# なんか今日はblockquoteが多いな。:-)


<takadat@st.rim.or.jp>