カテゴリー: diary の記事一覧

1995年05月07日からの日記

すみません

7月27日付の日記で、

そういえば、岡さんに見せてもらったんだけど、N+I Daily Newsの20日号に、私、しっかり載ってますねぇ。しかしあの記事はどうやって書いたんだろう。まさか話を最初から最後まで全部聴いていてくださった訳ではないだろうから、ワークショップノートを読んで「見てきたような話」を書くんでしょうか。さすがプロの技。でも、ジョン・マーコフは記事を書いた人であってWWWの提案者の1人ではありませんし、あの言葉はTimの言葉ですので、あしからず。:-)

なんてことを書いてしまいましたが、その後、磯貝さん (あ、これも日記だ :-)からメールを貰い、記事を書いた編集部員の方は最初から最後まで私のセッションを聞いていてくださったとの事実が判明しました。う〜、私の単なる憶測であんなことを書いてしまい、誠に申し訳ないっす(_o_)(_o_)(_o_)。

「あの言葉がTimの言葉」云々の件も、よく考えてみれば、なにせその場で口から喋っていることなので、「日記の今日、否、今日の日記」的な言い間違えをする可能性は充分あります。おめ〜は言い間違えなかったのかと問い詰められれば、自信はまったくありません。これまた上の書き方がイヤラシらしかったことを深く陳謝。ごめんなさいです(_o_)。

しかしこういったやりとりができるのも、両者(この場合「N+I Daily News」と「私」)の持っているWWWというメディアの適当な「軽さ」の由縁でしょうか。これが、「朝日新聞」対「私」だったからこんなことは可能なのだろうか?

などという評論で締めてしまうというズルは止めにして、もう一度、

すみませんでした。(_o_)

久しぶり

日記も本当にご無沙汰だったなぁ。という訳で一週間以上ぶりの日記です。

ご無沙汰だった間に何があったんだっけか? 覚えてねーや。とりあえず今日は、またオウムとフランス核実験ですか。しかし、なぜこんなに中国とフランスで扱いの大きさが違うんだ>朝日新聞他。あ、聞くだけ野暮ってか。:-b

私がネグポン∞モードだった間に、"THE SECOND SUMMER OF WEB"が急激に具体化してしまったっすね。

第一回トラバ食品のミーティングの時につくづく思ったんだけど、やっぱ、ヤル人は実際に会って話しても何をやってもパワーがあってヤルな、って感じ。(意味不明 :-)

このイベントそのものには、ほとんど私は何も貢献してないんけど、いちおー"Second Summer of Web"っていうフレーズだけは持ってってもらえた(って誰でも思いつくフレーズだけど)ようなので、この機会にこのページにも後で手を入れとこっと。

てな訳で、ほんとーにこんなイベントを実現させてしまう、すんばらしい人達に感謝と尊敬の念を抱きつつ、俺だって(方向性は全然違うけど)11月の奴は絶対に成功させたいぜと強く心に誓う! or Die!!

つーか。:-)

絶対的な責任の追及

榊原くん無事にLouisianaに着いたんだろうかねぇ。デンマークのどこぞで、

「すいません、Louisianaにはどうやって行けば…」
「ここはDenmarkだよ、兄ちゃん。Louisianaならアメリカに行きな」

などという会話が交わされていないことを切に祈るっす。:-)

で、榊原くんの日記の「終戦50年 [Aug 15 1995]」を読んで以来ずっと引っ掛かってたことを、ちょっと書いてみる。


絶対的な責任の追及の甘さ.

これは戦争についてよく問われる日本の甘えの構造.
地震についても何が天災で何が人災であったかの追及は殆んどされていない.

日本の政府の対応とそれについての国民の反応を見ている限り,責任の追及を
今更乍らにやろうと云う気持ちはここにはないらしい.


「絶対的な責任の追及」って、本当に日本人はしないですね。なんでこんなに出来ないんだろ? 昔から駄目だったのかなぁ。それともよくありがちな、高々最近50年か100年の現象なんだろうか?

戦争…

今回オウム真理教がやったと巷で言われていることが50年前までに日本がやっていたことの貧小なコピーだとすれば、それに対して司法・行政・立法・マスコミ&日本人ほぼ全員が今やっていることは、まさしく50年前の精神構造の忠実なるレプリカント。「一億総火の玉となりて、いざ、鬼畜オウムを殲滅せん!」ちゅうか。

もし仮に今回のオウム真理教関連の騒ぎが本当に「権力のデッチあげ」だとしても、なぜそんなことになってしまったかの絶対的な責任の追及は、何もなされないだろうし、誰もする気もないだろう。

そんな「もし仮に」が到底考えもつかないなら、例えば、更にその精神構造の卑小なコピーである「松本サリン事件河野さん犯人扱い騒ぎ」の絶対的な責任の追及でもやってみたらどうだろう。(河野さんにとってみれば、「どうだろう」なんていうのは失礼な物言いだけど。)

でも、今のとこ、やられてないし、今後も、やられないだろうなぁ。

10年前まで三公社五現業のひとつだった某民間企業にも「失敗」は(どこの組織にもあるように)あるけど、誰の責任かが徹底的に追及された話なんて聞かないものなぁ。

あぁ、ここにも凡小なるコピーが…

淘汰

ピクスピ寺本さん『WWW日記について考えてみた』を読んだ。

寺本さんの言わんとすること自体は良く分かるけど、唯一、「淘汰」という言葉に対してどうしても引っ掛かりを覚えてしょうがないので、寺本さんの真意を(たぶん)敢えて曲解して、「淘汰」という言葉に喰って掛かってみたいと思うっす。

『WWW日記について考えてみた』より、

ハイパー日記界にももうすぐ淘汰始まる雰囲気をやたら感じるので要注意つー内容だ。

こだわりを持って好きだ!と言えるものがある人なら、そんな簡単に「淘汰」などという言葉を使いたくはないんじゃないかと私は思う。何でもいい。本でも雑誌でもレコードでもテレビ番組でもポテトチップスでも。自分が好きだったものが「淘汰」されてしまって手に入らなくなった時の悲しみ、それを知ってる人なら。この私が愛するものが「不要」だって、一体誰が決めたんだ! 出版社? 取次店? 書店? 俺は欲しいんだよ、勝手に無くすなよ〜、つーか。

その点、Webっつーのは、ものごとが「淘汰」される必然性のない、面白い流通形態だと思う。別にクソなページがあったって、誰も困らんけんね、ちゅうか。単に誰にも読まれず存在すればいいだけ。提供者以外の誰にコストが掛かる訳でもなし(実はこの点自信ない)。それが可能な媒体だと思う。

「誰にも読まれず存在云々」っていうのも本当はちょっと違って、数千万人(?)の参加者のうち、たった2〜3人が読んでくれればイイ、というものが存在できる媒体、と言った方が正しいだろう。

前に某広告代理店関係の人と話をしていて印象的だったのは、いわゆる広告業の人々は、15秒なら15秒のCMを15秒間分余すことなく全ての人に全てを伝えることに命をかけている、らしい。

一方Webはといえば、私の考えでは、全ての人に全てのページを余すことなく読んで貰おうなんてことはそもそも考えちゃいけない。例えば100のページが用意してあって96番目のページはほとんど誰にも読まれないとしても、ある日ある時たったひとりの人がそのページを必要としたとき、「あぁ、あったぁ〜。よかったぁ〜」と言って貰うために100個のページをあらかじめ用意しておくことができる、そんなメディアだと思う。

と私が言ったら、相手の某広告代理店関係の人は「面白い考え方ですね〜」と言いつつも、なんか釈然としない様子だった。

この考え方は間違ってるんだろうか? 間違ってるんだったらそれまでだけど、もしちょっとでもそういうことを考えて良いんだったら、Web界に「淘汰」なんてことは絶対に起こって欲しくないし、そもそも起こす必要のない場だと思う。

と、無理に一単語に喰って掛かるのはここまでにして… :-)

実際、寺本さんの言いたいことはそういうことではなく、「読む側が自分で選択することが重要になるよね」「厳選されたもののディレクトリが出てくるよね」「内容とは関係なく選択されちゃうこともあるからプレゼンテーションには気を付けようね」っていうことだろう。それは本当にそうなるだろうし、必要なことだろう。でも、そういった選択から漏れてしまったものも、ちゃあんと存在しつづけて欲しい。選択から漏れてしまったものの存在自体を否定するような風潮だけは絶対に出てこないで欲しい。というのが私の切実なる願いです。それを必要とするたった2〜3人のために。


あと、クリックしたらクソページが出てきたときに、「ばかやろぉ〜」と単純一方的にそのページの作者に対してのみ怒ってしまっていいのか、というのは、昔の日記にものちらっと書いた、「クリックする意思」というのに関係してくるんだけど、これはまた考え出すと何がなんだか分からなくなる大問題なので、またいつか書きます。


あ、そうだ、

『WWW日記について考えてみた』より、

日記の数が多くなったことで、ただ日記をつけてる時代から、見せ方とか整理の仕方が比較されちゃう時代になると思うんだよね。そういった外見の部分に気をつかうかどうかってことが、その人のWWWに対する姿勢、「読んで面白いかどうか」を知るキーポイントのひとつになる気がするぜ。

なんだけど。はい、私の日記の各ページには日記のインデックスに戻るリンクとか何にも用意されてません。ダサイですね、はい。すんません。

ちなみに私のページにそんなんが多いのは、むか〜し昔のそのまた昔、世の中にはproxy serverもdelegateもなく、<Back>ボタンと<Forward>ボタンで移動した時にしかキャッシュが効かないブラウザ(xmosaic-0.9とか :-)を使っていた、そんな時代のトラウマ以外のなにものでもないので、勘弁してちょ、つーか。

だってリンクを使って「元に戻」らせると、その度にサーバにアクセスしに行って、遅くてしょうがなかったんだもの。:-)

にっき

書きたいネタはそれなりにあるんだけど、若干疲れぎみ気力不充分なので、ちょっとは日記らしくしよう。

土曜日。昼は道志の森でBBQ.そのまま夜はMt. Fuji Jazz Fes.

Mt. Fuji Jazz Fes.は行くたびに思うけど、ほんとに箱庭的だなぁ。まぁ、箱庭でも庭はあった方がいいので、文句は言わない。

日曜日。昼まで曝睡。夕方は中華街。華正楼でご飯。ほうれん草の炒めて煮たのがうまかった。あ〜ゆ〜シンプルな奴が一番家では作りにくい。

帰りは東名使って帰ってきたけど、東名の上りは例によって綾瀬バス停を頭にべったり。あれ、ほんとに登坂という理由だけなんだろうか? そっから先はスイスイなだけに、やっぱり謎。謎は謎として、みなさんお疲れさまです。明日から皆さんもお仕事ですね。

明日は普通に会社行って、明後日は武蔵野。明後日には道空いてるといいな。

pink

今泉さん。なぜ突然"pink".なぜ今時…

しかし話が"pink"となると黙ってはおれません。俺にも何か言わせろ、ちゅうか。:-)


私はあまりマンガを読む人ではないけど、マンガというものの中で一番大切なものを出せと言われたら、間違いなくこの"pink"を差し出すだろう。別にマンガなんて枠を作らなくても、絶対に忘れてはならないものの中に必ず入る。それほどまでに"pink"は自分にとって大切なものだ。

このあまりに素晴らし過ぎる作品について説明することなんてとてもできないから、3年前に(3年かぁ…)とあるメーリングリストで"pink"の話が出たとき書いたメールの断片をそのまま引用してみる。

ふとしたことでどこかが壊れてしまった普通の人間が、その壊れてしまったことを決して悲観せずに、壊れたまま普通に明るく生きていくのが良いっす。自分自身が明るく生きていけさえすれば、人生何でもありっす。

#現実はそうはいかないけどね。

と、これも陳腐だね。

岡崎京子といえば、今はもう"リバーズ・エッジ"なのだろうか。作者本人もそう言ってるんだから、そうなんだろう。確かに"リバーズ・エッジ"はとてつもなく凄い作品であることは充分分かってる。でも私にとっては"pink"だけは別格の重みを持って存在している。自分にとってこれを越えるマンガにはもう出会えないかもしんない… とか。

"pink"と"リバーズ・エッジ"の違いって何なんだろう? ひょっとしたら1989年と1994年の違いだけなのかもしれない。だとしたら、単に自分が、少なくとも1994年よりは1989年の方が疾走しているつもりだった、だけなんだろうか?

"pink"と"リバーズ・エッジ"に共通している、何というかあのジリジリした感覚。あの感覚に憧れを感じてしまう自分は、もうただの年寄りだな。あのジリジリした感覚から何とか逃れようともがいていたことを「疾走」と呼んでしまうのは、やっぱり年寄りの証拠。そんなカッコイイもんじゃなかったはずだ。疾走感の喪失感、つーか。

しかし、いいなぁ、岡崎京子。何に入ってるか忘れたけど、ピンクの透明のゲロみたいな宇宙人が出てくる短編、あれもいいよな。あれ読むとちょっとだけ元気が出る。元気がなくなってどうしようもないときに"pink"を読むと、「こんなんに出会えるんだったらもうちょっと生きててもいいかな」とか思う。

— 「去年pinkが私に与えたものは海よりも深い」((C) 吉本ばなな)


夏休み

夜、ニュースを観た。なんか円安をさも良いことが起きたかのようにしか報じないマスコミっつーのも、こいつら本当に一般人の感覚と合ってるんだろうか? とか思う。

そのニュースを観てると、一般人は盆休み真っ只中だっつーのに、外為市場関係の皆さんは鬼のように働いてますな。お疲れさまです。やっぱ働く人は盆でも働いてるんですね。

しかしみんな、本当に一斉に休むよなぁ。なんか平気で休んでるよなぁ。「明日できることは今日やらない」史観に基づくと、「3日休めるんだったら1週間休めるだろうに」「1週間休めるんだったら1ヶ月休めるだろうに」とか思うけど、そうでわないんだべか。試しに1ヶ月休んでみればイイのに。

試しにといえば、やっぱ一度試しに、盆か正月の真っ盛りに都道府県境なり道州((C)大前研一)境なりを封鎖して、そこで人間を固定して欲しいよな。ついでに霞が関と永田町も封鎖して、あとは各自各地で勝手にせい、と。

というのは東京者なら誰でも思い描いたことのある夢。ああっ、でも今は神奈川者ぢゃないか、俺。ま、いいか。いいから一度試してみよう、一度。:-)

ゴジラ

朝、テレビを観た。そうか、日航機事故から10年なのか。SUKIYAKI song偉大なり。う〜む。

夜、テレビを観た。「ゴジラを通じて戦後50年を振り返る」みたいな番組をやっていた。ゴジラなかりせばモッツィラは存在しなかったのだろうか。う〜む。

そのまた夜、テレビを観た。F-1. ゴクミの美しさも世界共通なのだなぁ。う〜む。

あと、買ったまま竹中さんのとこ以外は読まずに放っておいたMEDIA FRONTを読んでみる。NTTテレマーケティングJavaなページはヤケに気合いが入ってるとか思ってたけど、そうか、クボタツ絡みだったのか。でも、「好きだからやっちゃった」のは誰? 文にはちゃんと主語を付けようね。大人なんだから。

で、「やっちゃった」のはこの人達なのかなぁ? ここにも空洞化があぁ、って、あれ? この人達もcrl.comだよ > 昌寿司さん。わははははは。

若さゆえ

世紀の快挙か大愚行かは歴史が判断するであろうasahi.comな朝日新聞だけど、今日の朝刊の家庭面にはインプレスの井芹さんのコメントとして、

ホームページは世界中に声の届く拡声機で、…(略)… 双方向のやりとりができ、世論さえつくれる。…(略)。

というのがあった。

さて、「Webは双方向か否か」ちゅう大問題である。

思うに、やっぱりWebは双方向では全然ないよなぁ。強いて言えば「一方向が沢山」というか。例えばHyperDiary界お得意の、「今泉大輔さん、見てますか。ファンです。(ほんとです ^^;)」みたいな、いつ読まれるとも知れない一方的な発信の集合体、みたいな。

もし双方向というならば、

他人が公開した情報へはどんな単位ででもリンクが張れて、情報の持ち主には誰かがリンクを張った瞬間に(何らかの方法で)それが伝わり、元情報の持ち主は自分に向けて張られたリンクを辿ってそれがどんなものかを見ることができる。

くらいのことはできないと。

って、これじゃXanaduそのものじゃない。けっきょくTed Nelsonはエライのだ、という結論になってしまうのはシャクだから、もうちょっと何か別のことを考えてみよう。:-)


んじゃ、「インターネットは新たなコミュニケーションを生むのか」、だ。

これもそう簡単には言い切れない気がする。例えばある人のページを読んでていかにも知った人のような気になっていても、また例えば、ある人とメールを何度も交わしていてすっかり昔からの知り合いのような気になっていても、結局その人や人達に実際に会うことのインパクトの前には全くの無力である。いくらメールで密に連絡を交わしていたとしても、直接会うことには全く敵わない。

すると問題は、「インターネットがなければとても知り合いにはなれないような人々と(メールやニュースやWebやmboneを使って)会話を交わす」ことにコミュニケーションの価値を置くか、「限られた人々とではあるが実際に会う」ことにコミュニケーションの価値を置くか、のトレードオフということだろうか?

てなことを考えてると、だからやっぱりアナテロはエライのだ、という結論になってしまうのはシャク… ま、イイか。:-)

彼らはHyperHitchHikeを通じて上の2つが排反するものではないことを実証しようとしている。

なんてぇのこれがまた年寄り評論家の勝手な物言いで、彼らはそんなこたぁ、ちっとも全然考えちゃいないだろう(考えてたらゴメン :-)。本人達にとっては、これは「ごく普通の行動」で「面白いからやってる」だけなんだろう。

でも、そっちの方がよっぽどシャクだ。:-)

あれから1年

あれから、もう、1年経ってしまったのか…

思い起こせば1年前、2月から8月まで滞在したスタンフォードFouadんとこに別れを告げ、8月6日にサンフランシスコを飛び立ち、日本時間の7日に成田に着いて、で、翌8日に私の居ぬ間に厚木に引っ越してしまった会社に初出社したのであった。

あの頃は、「あ〜、日本に帰るのがヤだよぉ、ヤだよぉ、ヤだよぉ〜」な、まさしく今の昌寿司さん状態だった訳ですが、いざ帰って来たらこれがまた一層イヤでした。:-)

なにしろ去年っつーことで、成田に着くなりもう、あの肌にネットリとまとわりつくような熱気と湿気が身体を襲う。

で、何が一層イヤかというと、なんちゅーか、車走らせた時の腹立だしさとか、物を買うときの高さとサービスの悪さにびっくりとか、人そのものの鬱陶しさとか、何とかかんとか、何か知らないけど肌にネットリとまとわりつくものがあるんだな。

これって一体何なんだろう? 今テレビで再放送(?)してる新閣僚の記者会見に出てくるおやぢの面がイケナイんだろうか。今朝の朝日新聞朝刊政治面「現在史ウオッチング」の石川真澄の吐き気をもよおすような物言いがイケナイんだろうか。それともそのシステムそのもの?

と、今日はあれこれと1年前の思いを語り綴ってしまお〜かと思ったけど、いざEmacsを立ち上げてみると、結構何も書けないもんですね。

それでも、あつひろさんも坂本くんもまだPalo Altoにいるし、あん時たまたま一緒に日本に帰ってきたJeffも今やPalo Altoにいるし…

別れのTied Houseのビールは旨かったのよん。(;o;)