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1995年05月07日からの日記

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インセンティブと性格の奴隷

数字と感情で人は動きます。
理屈では人は動きませんし、動かせません。

年収200万円以下の私が思う事 – ラグランジュ・エイト

これって微妙にずれた捉え方をしてる人がいるような気がするけど,言ってることは,

人はインセンティブと性格の奴隷である (p.1)

会社は頭から腐る (冨山和彦)

と同じことを別の角度から見たものですよね,たぶん.

話は変わりますが,私の住んでいるところは,数年前に家庭ゴミが有料化されました.そのとき,いわゆる地域系BBSを読んでいて思ったのは,やっぱ,人間,金だな,ということです.

BBSに出てくる人が,「一袋○円でこんだけしか入らない.ゴミを分別しないといけない.たいへんだ.めんどくさい」とか何とか文句を言ってる訳ですよ.つまり,それまでは資源ゴミも何も関係なく可燃と不燃だけで(たぶんそれもいい加減 :)捨ててたような連中が,自分の財布に手が掛かっただけでゴミの分別をするようになる(それも1回あたりで言えば数円とか十数円の金で).私は自治体の関係者でも何でもないですが,「有料化して良かった」と,BBSを読んでいて心からそう思いました(笑).

ひとりの人間も、集団としての組織も、インセンティブと性格の奴隷である (p.22)

(同上)

ですよ.いやほんとに.

以下,ついでなので,もう少し引用.この本,第1章はたいへん読ませるのではないでしょうか.:-)

ほとんどの人間は土壇場では、各人自身の動機づけの構造と性格に正直にしか行動できないという現実であった。そこには善も悪もなく、言い換えればインセンティブと性格の奴隷となる「弱さ」にこそ人間性の本質がある。(p.5)

インセンティブとは、働く上で何を大切に思うのか、人それぞれの動機づけされる要因である。… このインセンティブは、人によって違う。また、同じ人でも人生のステージによって変わっていくものである。ここには、能力の優劣はまったく関係ない。(p.26)

そもそも、経営が送り出すメッセージに対して、ただちに心から反応し、動機づけられて行動する人間は多くない。経営者がそのメッセージをどこまで本気で送っているのか、… まずは値踏みモードに入るものである。こんなとき、人々は経営者の本音が最も出る部分、すなわち人事、それも制度ではなく固有名詞の人事を見ている。(pp.31-32)

一人ひとりの動機づけ,すなわち自己益というもの。企業組織として動機づけられている方向性である組織益。最後に社会全体の有する動機づけ、すなわち社会益。これら三つが根本的なところでシンクロしているのか。私たちは常に自問自答し、それらをいかに同期させるべきかを追求し続けなければならない。(p.32)

(同上)

なんか,民主党政権とか,官僚とか,予算とかのネタ書くときにも十分使えますね,この引用.:-)

セールストーク

読み流しちゃったので出典がもう分からないのだけど,思いっきり自戒を込めて,メモ.
(記憶に頼って書いてるので,たぶん何かしら表現が違ってます.元の記事はWebのどこかで読みました.分からずに書いてごめんなさい>元記事の人)

曰く,物やサービスを売り込もうとするときに言うべきことは,

  • 経営者には,「安くできます」「コストを下げられます」
  • 現場の人には,「簡単に使えます」
  • 「なんでもできます」は一番駄目

おっしゃる通り.

結局,使ってもらえる,ものづくりの全ての指針はこれなのかもしれない.個人で物買うときだって,(お金を出す)経営者と(使う)現場の人の二人の人格が自分の中で会話してるよね.

殺して食べます

マイミクさんの日記にアサリの話があったので…

日常的に自らの手で(自分の家のキッチンで)命を殺めて食べるものって,アサリとシジミとハマグリくらいだなあ,って調理してていつも思う.

他に自分が最低1回でも経験があるのは,ホタテとカキとエビとカニとアジ(だったかな)くらいか?

自分で魚を釣る人は,魚の経験も豊富なのかな.

野菜は自分で畑から取ってくることもあるけど,植物の死の定義がよく分からんので,この文脈ではパス.(ベジタリアンにも,茎や根や葉も食べる人と,果実しか食べない人がいるよね.でも,果実食うのと卵食うのは結局何が違うんだ,とか思うけど.)

生鮮とか言いつつ,スーパーで売ってるほぼ全てのものは既に死んでる,ってことだね.

関係ないが,なんで魚介に限って天然物がことさら重要視されるのだろうか? 肉や野菜は,普通食べてるのは全部「養殖物」だろうに…

「いただきます.」

疑似tumblり (その1)

Tumblr使うかわりに日記でやるコーナー,その1.(続くかどうか不明)

———

「はてブつまらない」「はてブ見ない」アピールはネット依存型中二病の始まり – しなちょうメルクマール – 熊手部

Twitter / 津田大介: 「テレビつまらない」「テレビ見ない」アピールはネット …

「テレビつまらない」「テレビ見ない」アピールはネット依存型中二病の始まりですね。

>「弾小飼つまらない」「弾小飼見ない」アピールはネット依存型中二病の始まりですね。
なるほど。
いろいろとメジャーなものを入れてみるとそれっぽくなるなあ。

で,
「…は中二病の始まり」アピールはネット依存型中二病の始まりですね。
で完結,と.

一生やってろ.ばかばかしい(笑).

———

拡張現実(AR)ゲームと道路使用許可 – Keep Crazy;shi3zの日記

AR鬼ごっこを秋葉原で開催していいかどうかということについて、さきほど万世橋警察署の交通課の方と話をしました。

一般的な鬼ごっこの場合、走るとか走らないとか無関係に許可は不要だが、いくつか注意事項があるとのこと。

* 少人数である(不特定多数の人間をあつめない)
* 通行の妨げにならないこと
* ゼッケンを付けたりコスプレをしたり等、目立つ格好をしないこと(腕章はOK)
* 観客を集めたりしないこと

という条件のもとであれば、鬼ごっこを路上ですること自体を規制する法律はないとのことでした。

ただ、これはこの交通課の警官さんの私見なので、実際に目立ちすぎるようなことがあれば職務質問をされたり、厳重注意されたりする場合が考えられますが、原則として大丈夫とのことでした。

この日本の管理されっぷりは,もう絶望的だと思う.

といって嘆いているだけではしょうがないので,どうすれば良いか考えるに,警察が国家管理が自由が人権がどうしたというのではなく,逮捕されたり家宅捜索されたり起訴されたり不起訴されたり有罪になったり無罪になったりということを糾弾しない風潮を作るしかない,と思う今日この頃.

でもそれが一番難しいんだけど.

実際,

今週末の土曜日、ヒマで死にそうなiPhoneユーザの方、また秋葉原で鬼ごっこしませんか? – Keep Crazy;shi3zの日記

「公道でイベントを開催するには、道路使用許可が必要では?」
という指摘があり

結局,警察より,こういう指摘をする奴(メンタリティ)が,そもそも諸悪の根源であるのだから.

———

で,Tumblrなんですが,どうも微妙に今ひとつで…

私的には,QuoteにDescriptionが無いのが一番痛い.Sourceにコメントも書く,って何だよそれ(俺には絶対できない :-).

それと,人をFollowするとどうにもDashboardが肌色風味になるのが… いや別に普通の人をFollowしてるだけだと思うんだけどなあ(笑).いずれにせよ,これは,外や職場で使えん(笑).

あと,reblogで同じものを何度も見ることになるのも何とかならないのかな,何とかなると思うんだけど.

とか勝手に文句言ってますが,とはいえTumblrがTed Nelsonの理想へと着実に歩みを進めるための一歩となってるのは確かな訳で,ぜひこのまま突き進んでいって欲しいです.(私も,密かな用途で使ってます.:-)

国民総営業社会

五輪東京落選.

「石原老害」とか「税金返せ」とか言ってる分にはお気楽な話で相変わらず今日も平和な日本な訳だが,この情景の一部を我が身に照らして見ると暗澹たる気分になる.

いろんな人がいろんな言い方をしているのだが,比較的分かりやすい例として,これを引用.

で、東京は五輪招致活動を続けるのだろうか。: 見物人の論理

 財政、設備、運営技術、安全性といった面で、東京(あるいは日本の主要都市)に充分な開催能力があることは、おそらくIOC評議員の多くが理解していることだろう。だが、五輪開催地はそれだけで決まるものではない。北京で五輪が開催されたことも、単一競技の大会ではあるがサッカーのワールドカップが南アフリカ共和国で開催されることも、石原都知事が言うような面だけではない別の理由によって決まっているはずだ。
 それを広い意味でいえば「政治」である。長年政治家として生きてきた石原都知事がそれを理解していないというのは解せない。ついでに言うと、「南米で初の五輪を!」という単純で骨太の呼びかけが、どれほど理屈抜きで人の心を動かす力を持っているかについて、政治家より長く文学者として生きてきた石原慎太郎が理解していないらしいことも解せない。文学者というのは人の心を動かす専門家ではないのだろうか。

(以下,「と、都知事に対する嫌味はこのくらいにして、少しこの先のことを考えてみたい。」と続くように,引用部分の冷笑的表現は元記事の本質ではないことを注記しておきます.)

共同体に所属していれば半自動的に役割が与えられていたような時代はもう来ない.今日び人間生きていくためには,ほとんどの局面でセールスマン(NPC wordだな)たる必要がある.

日々の糧を得るには,自分の能力/技術/属性あるいは自分が創造/創作したモノ/コトを他人に売り込まなければならない.幸福な生活や生殖のためには,自らの人間的魅力やら性的魅力やら前文と同様の項目(やっぱお金よね,とか :)を,そして他者からの認知が人間にとって生きていく上で不可欠なのであれば,自らの人間性そのものを,セールスする必要がある.

そしてセールスマンとして勝つためには,みな,
・売り込む「商品」そのものの優秀性
の向上に励めばよいだけではなく,
・政治家としての能力
・文学者(物語を作る/人の心を動かす者)としての能力
に長けていなければならない.

いやそれは,当たり前のことで,皆,日々そうして暮らして居るんだけれども(論文通すのもファンド取るのもプロダクト売るのも商売やるのも彼氏・彼女作るのも就職・転職するのもポスト・ポジション得るのもみんなそう),改めてそうなんだと言われると,暗澹たる気分とまではいかずとも,まあ,正直しんどい,というのが偽らざる心境なのだ.

P.S.
みんながみんな,本当にしんどいと思うようになったら,そうしないで済むような「大きな物語」が復活するのかな?

未来を描く

なんだか分からないけど,ホンダのU3-Xって,劣情を催し(?)ますよね.見ると何かひとこと言わずにはいられなくなる.「これ一輪でどうなってるの???」的な直接的疑問から,「ホンダ(日本)すげえ!」あるいは「結局セグウェイ(欧米)のパクリ改良かよ」みたいなメタ言辞まで,それはもういろいろと.(長尾先生のブログも突然再開してるし)

ということで,私もひとこと.

ホンダとかトヨタの一連の(次世代?)モビリティものを見ると,そこから未来が見えるよう,ちゃんと考えられているよなあ,っていつも思う.

つまり,

  • このようなモビリティが将来,社会で必要とされること
  • その要請に応えることが産業として成立すること (たぶんこれが一番重要)
  • その産業の中で自らが主要なポジションを占めるという強い意志を示し,それを裏付けるもの(技術)を作ること
  • 上記三つをステークホルダーに納得させるプレゼンテーション/デモンストレーション

が,きちんと揃っている,と.

この中で一番重要なのは,単にその会社のその技術(製品)が売れたり普及したりということではなく,一企業に収まらない産業としてそれが成立する情景を示すことだ.ゴールが"EXIT"であるようなスタートアップ(おそらくは,面白かったり尖っていたりオンリーワンであったりすることが重要視される)と,大きな会社が未来を語るときの,最も大きな違うべき点はそこだろう.

ある製品/サービスを普及させるという話だと,当人以外は全員顧客候補となる訳で,そこから寄せられる感想は「幾らなの?タダなの? 発売/サービス開始はいつなの? でそれであんた儲かるの?(一部VC目線)」でしかあり得ない.一方,産業が創生されるのであれば,自らもプレイヤーの一部だという視点での「俺も儲かるの? 俺に何ができるの? じゃ何しようかな?」という注目を集めることができる.つまりは,ビジネス像じゃなくてエコシステム像を言うべき,ってこと.

上の話の「モビリティ」を「コンピュテーション」に置き換えた場合,Google, Amazon, Apple, 半周後れて Microsoft, Yahooあたりが,いま,クラウド的な何かを示すときも,やはりこの構成をしっかりと抑えているように思う.

では対象を「コミュニケーション」にするとどうなるか.残念ながら,すっきりとした話をここ最近聞いたことがない.おそらく何かがどこかで捻れている.

「メディア」??? まず一旦バラして…の真っ最中なので,次の画を描くのは,もう少し先なのか.

このように未来を見せることに,奇をてらったことは何一つ必要ない.使うのは,ニーズ,ビジョン,ミッション・ステートメント,コア・コンピタンス,といった伝統的手法で充分(というかそれが正道).あとは,いかに考えずに,いかに考えるか,ということに尽きる.しがらみとか過去の経緯とか先入観とかの余計なことを考えずに,多様に深く何手先までも考え尽くす.ほんとうは皆それを分かっているんだと信じたいけれども,なかなかねえ…

もちろん,きれいに描けていることと,それが将来現実のものとなることは全く別であり,実際に何がどうなるかなんて誰にも分からない.でも,それでもちゃんと描きたいし作りたいよね.

以上,友人達からの私信の返事に代えて.

Googleの神様視点は(今のところ)動体視力に欠ける

(前の記事の続きです)

神様視線があれば,持ってる人と欲しい人が分かるのだから当然マッチングしてあげたくなる,それって広告モデルそのものだよね,というのが前回のお話.

さて,不況と産業構造硬直化と雇用縮退に悩む日本に住む人間としては,このマッチングのメカニズムを労働市場にも適用できないのかなぁ,と当然思う訳で…

といいつつ,真っ当なことを考えても面白くないので,ここでは少し趣を変え,ハローワーク的パーマネントな雇用が理想である式の労働の話ではなく,育児や介護におけるファミリーサポート的な(高校生のベビーシッター的と言ってもよい),出来るときに出来ることをする/してもらう,時間切り売り的な労働,のマッチングについて考えてみる.

もし「神様視線」から,いまどこで誰が何をして欲しいか,そして,いまどこで誰が何が出来るか,を見通せるのであれば,単純にそれらの間でマッチングを取るモデルを作れば良い訳だが,そのようなモデルは,まだうまくいっていないように見える.(うまくいってる実例があったらごめんなさい.)

なぜうまくいかないのか? それを説明する仮説が2つ思い浮かんだので書いてみる.

仮説その1.「モノ」と「コト」問題.

して欲しい/出来る,というのはモノではなくコトである.人間,モノの交換や売買には慣れ親しんでいるが,コトの交換や売買に馴染みがないため,うまくいかない.しかし,労働も,一旦,「ジョブディスクリプション+契約」とか「サービス」という形で「モノ化」されると比較的容易に商品となり得るので,それらはいずれ神様マッチングモデルの配下に収まる.

(うーん,いまいち.というか,この方向の整理がまだ頭の中で不十分)

仮説その2.「いま」の精度問題.

前の記事で書いたように,地理的に分散した対象のある時刻での状態を一点で把握することは通常不可能である.Googleの神様視点は偽神様なので,ある時刻ではなく,ある時間区間での状態しか把握できない.今のGoogleの場合,(サービスの種類や対象にもよるが)その時間区間の粒度は数日〜数ヶ月といったところがせいぜいであり,それが故に,労働の需要と供給のマッチング機能は実現できない.

(こっちの方がまだ芽があるかな.では,こっちで続きを…)

いまどこで誰が何をして欲しく,いまどこで誰が何が出来るか,を,ファミリーサポート的モデルでマッチングしようとするならば,その時間区間の粒度は数時間単位であることが必須だろう.今のGoogleは,どちらかと言えば世界規模の広がりをカバーすることに注力しており,時間方向の整理の粒度を上げることは後回しになっているように見える.

つまり,ここで足りないのは,皆の「いまなにしてる?」(あるいは「いまなにしたい?」)を見通す神様なのだ.

やっぱオチはそこかよ! というつぶやきが脳内にエコーするが,それはスルーするとして(笑)…

ともあれ,全ての "beam" を見通す神様視点を誰が実装するのか,それが勝負! なのだろう.そして仮にそれが実現されるのであれば,context-aware も life-log も sensor-network も ubiquitous-computing も,その大きな流れの一部に過ぎなかった,ということになるのだろう(か? ←やや自信がない :-).

Googleの神様視点

Holodeckが「神の視点」かと言われると少し違うような気がするが,それとは関係なく,Googleというのは「神の視点」の実現を本気で目指した組織だ,と思う.

小説(劇作や映画も含む)界隈での専門用語に「神様視点」というのがある.多くの場合,それは,複数の登場人物の心理描写ができる,すなわち,全ての人の心の中が分かることを意味し,「神様視点」を用いることで,作中の複数の人物の視点からの描写が可能になる.

コンピュータサイエンスの分野においても,この「神様視点」という言葉が比喩的に用いられる.例えば人工知能のような分野では,複数エージェントの内部状態を知ることができる状態を「神様視点」と表現するケースがあるし,分散システムの分野では,物理的に異なる場所に存在するもののある時刻での全ての状態を知ることを,そう言い表すこともある.

こうしたものを含めて広義に「神様視点」を定義すると,「異なる場所にある,異なるものの,ある時点での様子を,瞬時に知ることができる」くらいが適切な表現だろうか.

そもそも「神様」というくらいだから,それらの行為は,通常,実現不可能なものだ.人の心の中は窺い知れないし,全てのエージェントの内部状態が取得可能であるケースは少ない.また,仮に状態の取得が可能であっても,対象が分散している場合,通信には遅延があり,ある瞬間にはエージェント内ではなく通信路上に状態(を遷移させるコマンド)が乗っていることもあり,ある時点でのシステム全体の状態を一点で把握することは,ほぼ不可能である.

とはいえ,なんとかして「神様」の立場に立ちたい人もいるだろう.

小説の場合,小説であるが故にそれが可能になる(テクニック的には難しいらしいが).

コンピュータサイエンスの場合は,
・「神様視点」があることを前提に,何かをする
・「神様視点」が実現可能なようなtoy worldを規定し,その上で何かする
・限定された状況下での「神様視点」の実現に有用なテクニックを開発する
・そもそも「神様視点」などは無いことを前提に,現実の問題を解決する
等々が,通常,仕事となるのであり,現実世界の「神様視点」を実装することを本気で生業とすることなど,普通,考えられない.

ところがGoogleは,「現実世界の神様視点の実現」を組織のミッションとして掲げ,本気モードの規模のリソースと現実的なプランをもって,その実装に着手した.

Googleが実際にそれをやってみることで,明らかになったことがいくつかある.

ひとつは,神様視点に正解はない,ということだ.

神様視点と称するものを差し出されたとき,それが神様によるものではないことは容易にわかる(自分が知っていてGoogleが知らないことを一つ挙げればそれが反例となる).しかし,それがそれどのくらい神様から遠く,どれくらい神様に近いのかは,人間には分からない.分からない/正解がない以上,それは,より妥当な神様(もどき)を作り出したもの,一番神に近いと周囲に認められたものが勝ち,というレースになる.今のところ,このレースの先頭をひた走っているのは,まぎれもなくGoogleだ.

そしてもうひとつ.

神様視点から見れば,いま誰が何を持っていて,いま誰が何を欲しいと思っているのか,すべては一目瞭然だ.だとすれば,持っている人と欲しい人とのマッチングを取らない手はない.Googleの広告収益モデルというのは,(それが生まれたきっかけはあくまでも偶然だったが) 実は最も理に適った,必然に近いものだったのだ.

(追記:次の記事に続きます)

Google Earth in the “t-Room”

田口さんのIDEA*IDEAで紹介されていた『The Google Holodeck』

あまりにも見た目がうちのt-Roomとそっくりなので,笑ってしまいました.(作ってる人間から見ると,設計思想やアーキテクチャが全然違うことも,また,一目瞭然なんですけどね.)

うちのt-RoomでGoogle Earthを動かしているところのビデオもあるので,紹介しておきます.

これ自身は京都にあるt-Roomの映像.一方,ディスプレイに映っている白い服の人は,神奈川県にあるもう一つの同様の装置内に居て,同じGoogle Earthの風景を共有して見ています.


ちなみに,Google Holodeckの誕生の経緯は,

The holodeck began as a tool for Street View engineers to evaluate picture quality. But it’s also a great way to experience other parts of the world.

だそうですが,一方t-Roomは,

t-Room is a room-sharing video system that allows people to simultaneously experience “distant space” and “remote time.”

を目指したものです.時間と空間を超えて,あたかも同じ部屋にいる感覚(同室感)を実現するためのシステムですが,仮想世界と同室することもまた可能になっています.

一応,我々自身の名誉のために言っておくと,Google Earth in t-Roomは,2年くらい前から動いています.(ていうか,Google Earthの利用許諾交渉の際に,写真やら何やら,日本法人に送ってあるんだけどな.:-)

参考リンク:

棚卸し

という訳で,どれを載せようかなあと思いつつ,書きかけ日記保存フォルダを眺めているのだけれども,昔に書いた文章というのは,どれもどこか何かしらの事情が変わってしまっていて,そのまま載せるのも問題あるし,かといって書き直すのも面倒くさいし… どうしたら良いのだろうか.(2年前のPerfumeネタとか :-)

まあ,事情が変わるという意味では,書いたときに公開して今それを見直したら現状にそぐわなくなってる,のと本質的には変わりない訳で,あんまり気にしても仕方ないんだろうな,とは思いますが…

書き直すのも面倒くさい,と言えば,とある人がとある日記で,LamportのPaxosアルゴリズムの論文のことを,投稿したまま放置されていたのが発見されて云々,とか書いてるけど,彼はあの論文の文面をそのまま信じているのかなぁ.

あの論文については,Lamport本人のWebに書いてあること()が真相だと思っていたのだけど,彼がそう言うのであれば,実はLamportの記述の方が更に手の込んだ冗談だったりして??? もう何を信じてよいか分からん.:-)

しかし,それにしてもこれ("The Writings of Leslie Lamport")は壮観だし,いろいろと懐かしいですね.学生時代に,(ブルバキみたいに)ランポートは一人じゃないとか誰かが冗談で言ってたのを思い出しました.

なんか話が完全に逸れてますが,というわけで,今後出てくる,微妙に違和感があったり説明が回りくどかったりする日記は全部書き溜めネタなので,ご了承ください,というお話でした.


(※) 一応この文章から読み取れる経緯書いておきますね.だいたいこんなんでしょうか.

  • ビザンチンの将軍」のウケが良かったので,今度は「ギリシア(エーゲ海)のPaxos島の議会」で論文を書く
  • TOCSに投稿したところ,査読者が「そのネタの部分,却下」と言う
  • 査読者うぜえ! (洒落が分からん奴らだ)と思ったランポート,そのまま投稿論文を放置
  • 数年の後,そろそろこの(重要な)論文をpublishする時が来たのではないかね,とエディタに提案
  • エディタ,出版には同意するも,年月が経った分,現状にそぐうようreviseしてね,と返答
  • 再び,うぜえ! (面倒くさいなあ)と思ったランポート,自分の手間を省きかつネタをより手の込んだものとするため,「失われた論文が発見された」ということにしてはどうか? と提案
  • 結局その案が採用される.演出と補足のための素敵な脚注付きで掲載

ついでに,

  • ACMの写植システムが××

とかも書いてありますね.さすが.:-)

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