(facebookノートからの転載です)

趣旨:ライブ・イベントのネット配信や遠隔講義等におけるリモート参加者の疎外感・一体感の欠如を解決する手法のひとつが「『伝わり』のフィードバック・ループ」であり、そのオリジナルは1997年の坂本龍一氏のコンサートのネット配信で使われたRemote Claps / RemoteApplause (竹中、江渡ら)にある。

TLTR

ネット配信や遠隔会議は数年おきに、技術・社会の要請から盛り上がりをみせそして沈静化する、というサイクルを繰り返す。2020年春、公衆衛生上の問題解決の手段として再び遠隔地間をつなぐことの需要が生まれている。かつて(2000年代)前職で遠隔通信の研究というか、いわゆる“デモ芸人”的なことをしていた時期、「遠隔○○の参加者の疎外感を解消する方法はないか」的な相談を何度かされることがあった。そのときの答はいつも、「その問題は既に1997年に解決済です」だった。2020年のサービスの最新状況を正確には把握していないが、ここ数日の「無観客ライブ・ストリーミング」への反応をみるに、正しく知られているか疑問に思うこともあった。そこで昔の書きかけの文章を発掘し、整理してみる。ちなみに以下の文章は本当に2000年代に書きかけたものであり、当然現職とは何の関係もなく、こんなことになるとは予想だに……です(笑)。

21世紀になっても(だからこそ?)、ライブやイベントのネット配信・遠隔講義・遠隔会議等におけるリモート参加者の疎外感・一体感の無さが問題として挙げられ、それを解決する方法はないか?という話がされる。私見では、それに対する解は存在し、そのオリジナルは1997年の坂本龍一氏のコンサートにある。

その解とは、以下の構造が成立していることだ。

  1. 主会場からの中継を遠隔地で観る参加者(達)がいる
  2. 彼らが中継から何かを感じ、リアクションをしていることが、主会場(や他の遠隔参加者)に伝わる
  3. そこで伝わったものを主会場の演者、主会場の参加者(と他の遠隔参加者)が見ている
  4. その見ているという事実そのものが、また遠隔参加者に伝わる、

つまり、主会場の演者→遠隔参加者→遠隔参加者の反応→主会場→主会場の演者と参加者→主会場の演者と参加者の反応→遠隔参加者、というフィードバック・ループを成立させることが遠隔参加者の一体感を生み出す。

言い換えるとそれは、

「『伝わっている』ことが伝わっている」ということが伝わる

であり、言葉を補うと、

「『遠隔地の参加者に主会場の様子が伝わっている』ことが、遠隔地参加者の反応という形で主会場や他遠隔地に伝わっている」ということが遠隔地に伝わる

となる。

1997年から98年の坂本龍一氏のインターネット・ライブ中継で導入された Remote Claps / RemoteApplause が、まさにそれを(必要最小限に)実現するシステムだった。これらのシステムについては、ウェブ上にわずかに痕跡が残っている。

このシステムは、遠隔参加者がStreamWorks/RealAudioで映像中継を観る一方でJavaアプレットを起動し、中継を観ながらキーボードの特定のキー(‘f’や‘d’)を押すと、その文字が主会場後方の大スクリーンに表示されるというものだ。キーを1回押す=1回手を叩く(拍手)というメタファである。

遠隔参加者は自分がした「拍手」がスクリーンに表示される(=伝わっている)こと、自分以外にも「拍手」をする遠隔参加者がいることを中継で観ることができる。主会場の観客と演者はスクリーンに文字が表示される=遠隔参加者の拍手ということを認識しており、観客(と場合によっては演者)は遠隔参加者の存在とアクションを知る。

拍手が沢山集まるとスクリーンがその文字で埋まる。それを見た主会場のどよめきが遠隔地に中継されることで、遠隔参加者には、主会場側で自分たちの存在とアクションが認知されており、それに対するリアクションがあるということが伝わる。自分も参加していること、自分の存在と反応(もっと言ってしまえば感情であり人格でもある)が主会場で認め・受け入れられていることを知ること。それが疎外感を排除し、一体感をもたらす。Remote Clapsシステムの要点はそこにあった。

フィードバック・ループの形成による一体感の醸成という手法は、恐らくそれ以前のメディアにおいても認識されていたのではないかと思われる。例えばテレビやラジオと電話(FAX)を組み合わせた視聴者参加型番組。さらに(1回転するのに数ヶ月掛かるが)雑誌の投稿欄の盛り上がりの構造にも類似性が見られる。

しかしネット中継という文脈におけるオリジナルは、Remote Clapsにおける、アイデアの考案・実装・コンサートでの実証だったのではないだろう。しかも当時のテクノロジー状況下で、1文字のみを伝えるという、その本質ぎりぎりを削り出したかのような見事な実装で。(そのアイデアと実装は、竹中直純、江渡浩一郎らによるものだと認識している。)

後に大成功を収めるニコニコ動画のコメントも同じ機能を果たしている。ユーザのコメントは他のユーザにも伝わり、その伝達メカニズムはユーザ間で認識として共有され、さらに他のユーザがコメントに反応することで(“擬似同期”しているあるいは生放送を見ている)ユーザ達に一体感が醸成される。

Remote Clapsで遠隔視聴者が拍手をしスクリーンが‘f’で埋め尽くされる様は、10年後にニコニコ動画で見られるようになる“88888888”を完全に先取りしていた。そして現在それは、ライブ配信サービスの「アイテム送信(いわゆる“投げ銭”)」という形でプラットフォームに組み込まれている。

余談だが、2016年4月2日にロンドンTHE SSE ARENA WEMBLEYで行われたBABYMETALのコンサートとその日本でのライブ・ビューイングでも同様の効果を用いた演出が行われたのではないか(実際に観たわけではなく、映像の断片を見ただけなので間違っている可能性もあるが)。このとき、ロンドンでのライブの様子が日本ライブ・ビューイング会場である各Zepp会場に生中継されていた。ある曲のあるシーンで、日本のライブ・ビューイング会場の観客側の映像が、ロンドンの主会場前方のサイド・スクリーンに大きく映され、その様子がライブ・ビューイング会場に中継されて戻ってきた。つまりライブ・ビューイング参加者にとっては、自分たちの存在がメイン会場に伝わり、メイン会場の観客達がそれを理解し盛り上がる様を、中継を経て認識することができた。このように、伝わりのループを構成することは一体感を醸成する演出手法のひとつとして、現場的には確立されているのだと思われる。

もう一点。ここ数日の「配信ライブ」を観ていてとてもおもしろく思うのは、主/演者がひとりでスマホやPCの画面に向き合い配信するタイプのものでは、主/演者がその場で「コメント」を読みながら対応し「フィードバック・ループ」を密に形成する一方で、配信の規模が大きくなるにつれ、たとえば演奏の合間にスマホを手に取りコメントを読む等、ループの力が弱くなることだ。通常のライブの、デカいホール vs. 狭いライブハウスではないが、使用する「メディア」によって一体感の形成度合いが異なってしまう。面白い現象だと思うと同時に、メカニズムを理解さえしていれば「不利なメディア」でもやりようがあるのに、とも思った。

これは完全なる私見です。勉強不足のため実はメディア/エンターテイメント/メディアアート等の研究史では別にオリジナルが存在するのかもしれません。ご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。以上、江渡さん、竹中さん、他チーム坂本マジすごい、というお話でした。