1996年04月の記事一覧

終わったか?

今日は、なんか、めげました。いろいろと、ちょっとメゲた。あ、ちょっとじゃないか、めげめげ、ちゅうか。

ま、そんなことわどーでもよくてですね、で、終わったか? とゆー話。

ある人と、「1997年9月まで」、ちゅう話をしていたとき、私が、「でも来年の9月なんかには、もうWebなんてなくなってるよなー」とか言ったら、横にいたひとあきが、「去年もそんなこと言ってなかったっけー」とか反撃してきた。そんときは笑ってたけど…

でも、まぁ、考えてみりゃ、もう半分終わってるよーなもんだよな。

いくら外面はWWWでも、.docとかいってWord (すげえ商品名だ :-)のファイル置かれてもねー。プラグインとかいってWindows (さらにすごい :-)用にしかシステムが存在せず、かつ、そのインタフェースもフォーマットも公開されていない形式でデータ提供されてもねー。(言っとくけど、どちらもMicrosoftには罪はない。)

ま、んなもんは情報共有じゃないわな。

interoperableでもplatform independentでもないんだったら、WWWなんてセコい仕組みをわざわざ使う必要ないのに。:-)

ちゅう訳で、もう半分終わってる、つーこって、以上。

とゆー上の話は、直接は、メゲメゲとは何の関係もない話題だが、思考方向は結局どっちも一緒なのかー、つーこって、めげめげのめげ、で、以上の以上。

ただのアホ

YahooのIPOも無事だか無事じゃないんだか、まぁとにかく終わり、朝日新聞によれば、Jerryも170億円持ちかぁ。

まぁ、170億円つったって株を売らない限りは、絵に書いた餅っちゅうか、取らぬ狸のなんとやらなんだけどね。

いやー、めでたいんだか何だかよーわからんけど、まぁ、よかったねー、jerry.

やっぱ、あんとき、遊び行って、一緒にやってりゃ良かったなー、俺も。

なんちゅーことを今更言ってる奴はただのアホである。

ちゅうか。うむ。

すげえ!

という訳で、何ゆえにWindows 95なんぞをインストールしたかっつーと、これを試してみたかったのだ、「アトラスRD首都圏 for Windows 95」。

で、いや、こりわすごい。すごいとゆーか、感動! (;o;)

ここまでキレた、かつ、分かっている、ソフトが出てくるんだなぁ。日本も捨てたもんじゃないなぁ。

このソフトの出来云々ではなく、そのコンセプトというか思想が如何にすんげえものであるかを書き示すにはこの余白は狭すぎる、でわなくて、あー、ちゃんと書くには真面目に書かないといけないし、うー、とにかくエライ!

ちなみに、このソフト、アルプス社さんが、企画・プログラム開発・データ作成・デザインなどなど、一切外注なしの完全自前で作ったとのこと。アルプスさんって、いわゆるソフト屋さんではなく、地図屋さんだよねぇ(おそらく)。

う〜ん、やはり、これからの未来を切り拓くのは計算機屋/ソフト屋じゃないんだな。あ、もう、いいよ、おめーらは勝手にやってりゃ、ちゅうか。うきー。

# 本人、個人的に思考が錯綜してますので読者の方は無視してください。(-_-;

あ〜、ほんと、こんなことわしてられない。

It’s the real world, isn’t it?

ちゅうか…

Version 4.00, build 950

一身上の都合、でわなかった、とある理由により、Microsoft Windows, Version 4.00 build 950などとゆーものをインストールしてみる。あ、Microsoft Windows 95とか言うんだっけか、世間でわ。:-)

いやー、何だかんだ言われてるけど、よくできてるよなー。電源入れたままドッキングして、いきなしPCICが2個になっても平気なのかー(もちろん逆も可)。すげえなぁ。しかも根っこは、ちゃんとDOSだしなぁ。

こんなもん、作れったって、普通できるもんじゃおまへん。すげえなぁ。

いや、皮肉じゃなくて、ほんとに感心してるっすよ。ほんとに。:-)

んでも、まぁ、本当なら、マイナーリビジョンが0の商品であるところのソフトウェアなんつーもんは使う気にはならんのだけど(freewareのばやいは逆だけどね)、どーしても試してみたいソフトがあるんで、しょーがなくインストールしてみました。ま、ぜんぜんノートラブルだからいいけどさー。

つーわけで、これから、「こいつ」をインストールしてみるですー。

でわね。

最近更新頻度が高いのは、暇で暇で他にすることがないのか、忙しくて忙しくて逃避が激しいのか、そりわ、しみつ、ちゅうか。

<業務連絡>
ringoが復活したかと思ったのもつかの間、今度はbeatboxがお亡くなりになったよーで、竹中番長の日記はしばらくおやすみだそーです。御祓いが必要っすか>SFC方面 :-)
</業務連絡>

つーこって、特に書くことはないのですが :-)、やはり最近巷の話題は、Netscape対Microsoftの仁義なき戦いでせうか。

しかし、(サーバ方面はともかく)ブラウザに関しては、Internet ExplorerもそのベースはSpyglass Enhanced Mosaicであって、そのまたベースはNCSA Mosaicであるからして、結局どちらもMarcやEricの子供達、ちゅうか。

暇で暇でパワーがあって時給数ドルで働く若者はやはり偉大である、ちゅうか。

名前記入欄

そうですね。私も、主婦は恐ろしいです。というか、不思議な存在です。

ところで、この規則第1項の

  • 主婦は自己責任原則を知らない。全部ダンナのせいにする。

を「オヤジ」に適用するときは、

  • オヤジは自己責任原則を知らない。全部カイシャのせいにする。

とするのでしょうか。やっぱし(この場合、「カイシャ」は「ヤクショ」等に置き換え可)。

と、ここから帰納するに(別に帰納せんでも何でも以前から思っているのだが :-)、主婦が「ダンナ」というときに指し示されるものは、自分の配偶者である男性個人のことではなく、何やら正体不明な論理的存在、いわば、世帯とゆーか家族とゆーかを法人格化したよーなもののようです。

やはり結局、同根なのでしょう。

ちなみに、とある(非『主婦』な)女性は、「『主婦』が何らかの理由で名前欄への記入を求められた場合、そこに自分の名前ではなく旦那の名前を書く。あれは一体何なのか? 理解でけん」と申しておりました。たとえば地域の自治会関連などのものは特に顕著で、ほぼ100%そうなのだそうです。

私はこの話を聞いたとき単純に、ひょっとして世間の『主婦』な人は、名前記入欄があったとき、それが個人の名前を要求されているのか、それとも「(たとえば)世帯主」の名前を要求されているのか、それを常に考えて記入しなければいけないのだろーか、そりゃ大変だなぁ、とか思いました。

しかしよく考えてみると、たとえば自治会に加入しているのは「世帯」あるいは「世帯主」であるっという概念が正常なのかどーかもよーわからんし、さらに、仮に本当に「世帯主」の署名が求められており、かつ、その「世帯主」が旦那である場合、その配偶者であるところの『主婦』が「世帯主」の署名を代行してしまっていいんだろーかつーのも謎だし、そもそも「世帯主」っつーのが実は一番謎な概念だし、まったく世の中分からないことだらけです。

ちなみに、ここでいう「世帯」あるいは「世帯主」というものの意味不明さは、「厚生省」とか「防衛施設庁」とか「大蔵省」とか、あるいは、「○○局長」とか「○○課長」とか、あるいは、「○○審議会」とか、あるいは、「国」とか、そーいったものの意味不明さと同じものなのでしょーか、それとも違うのでしょーか。

「定年」間近になっても分からないことは山程ある人生です。

デジタル化の意味・テキストデータであることの意味

今日は研究会に行ってきました。この研究会に行ったのはこれが2回目ですが、なかなか味のある研究会で好きっす。

いろいろと味があったのですが、聞いててひとつ、はっ、とさせられたのは、文教大学の安田先生のお言葉。それは、去年のフランス核実験反対署名についてなのだけれども、曰く、

あるシンポジウム(?)で某氏が、インターネットで行なわれた核実験反対署名がいかに反響をよんだかを滔々と話していたが、私はそれに対してなかば皮肉にこう言った。「私なら、そういった形で自分の名前を載せるようなことは恐ろしくてできない。もしフランス政府にそのデータに利用され、例えばシャルル・ド・ゴール空港の入国審査で『好ましからざる人物』として入国を拒否されないとも限らない」、と。

(記憶に頼って書いているので、不正確です。申し訳ないです)

核実験に対する考え方とか、署名に対する考え方とか、それを利用されることに対する考え方とか、そーいったことは全ておいといてですね、この発言にはヤラレました。私も以前、例えばこんな風に「デジタル化されたデータの力」なんぞとエラソーに書いてましたが、これは完全に「目から鱗」でした。

そうです、やはりこれも「デジタル化されたデータ」の力です。紙に書かれた55299人の名前と、電子化されたテキストに書かれた55299人の名前の、本質的な違い。

そして、より重要なのは、「デジタル化されたテキストデータ」の力、という点です。現時点のテクノロジーでは、そのデータがテキストか否かも、本質的な違いとなります。

世の中、「通信革命」だの「インターネットがどーした」だの「CATVがどーした」だの言って浮かれてますが、この「デジタル化」とゆーものの意味について、皆、考えているのでしょーか?

そして世の中、「デジタル革命」だの「MPEGがどーした」だの「CGがどーした」だの言って浮かれてますが、この「テキストデータ」とゆーものの意味について、皆、考えているのでしょーか?

うむ。

異形のもの

テレビのニュースなんぞを、つらつら見ていると、どうにも理解できないとゆーか、見ていて堪えられない「異形のもの」を発見する。


その1:甲子園の応援スタンドの風景

あれは変だ。何をどうしたって変だ。あそこにいる人達は観客ではなくて応援のための装置なんだな。で、その「応援」も応援ではなくて単なる「型」、っつーか。ま、その中を一人一人見れば、本当にあれがしたくてしてる人もいるのだろーし、あ〜だり〜な〜ったく、でもこれやりゃ単位くれるっつ〜しな〜、仕方ね〜な〜、という人もいたりして、それなりに人間模様様々で面白かったりするんだろーけど。

で、その変さを私に見せてくれるのは、実はカメラの構図だったりするのだな。スタンド全体を引いて撮ってるときや、一人をアップで撮ってるときは、まぁ、それほど不思議には思えない。でも、20人とかがフレームに入る中途半端な引きの画がいけない。ポンポンで「V」とか作ってる個人が見えちゃったりして。実は、変を変に見せるも見せないもカメラアングル次第。自己喪失。

その2:田中角栄邸相続税物納で半減

田中角栄がどんな人だか、あの土地屋敷をどうのように手に入れたのか、あれ以外にどんな資産があったのか、私は全然知りませんが、死んだら半分没収ですか。やっぱしこの国には私としての人間は存在してはいけないのですね。法人のものだったら実質半減期は無限大だよな。公地公民、拡張される公、ちゅうか。

しかしそうして土地は切り刻まれていく。一度切り刻まれた土地を再び接合するのにどれだけのエネルギーを必要とするかは、我々は既に80年代に学んだ。熱力学の第二法則。

その3:TBS問題

TBSが何をしたのか、いったい何がいけなかったのか、私には全然理解できませんが、やはりあれは、ようやくスケープゴートが見つかったので、皆、嬉しくてたまらないのでしょうか? それとも、TBSがあんなことさえしなければ誰も死ななかった、と言って皆で安心したいのでしょうか? それとも単なるイジメなのでしょうか? どーにもよく分かりません。

ちなみに私は、血を飲んで救いが得られるか否かはその宗教内で決めることであり、それを外から非科学的だといって糾弾する弁護士は誤っている、という意見に賛成です。だからといって、殺されてもいい、とも思いませんが。国民の権利及び義務。


とかゆーことを公言する私は、その時点で世間から「異形のもの」と見做されるのですね。

異形は偉業で異郷に去れ、ちゅうか。意味不明。

hack’em


という訳で、WWWを手にしたことにより今や私はBBCにもなれるのであった(違うって :-)。あ、力武さん、ありがとうございます :-)。

しかしこれも一種のhackなのであろうか?

などとゆー強引な接続句とともに、「デジタルボーイ」(5月号)の特集『ハッカーの書誌学』を見て俺もやろっ、と思ったことを一発やってみるっす。寺本くん、私の日記なんぞを挙げてくれて、ありがとー。

とゆーわけで、勝手に寺本くんとデジボへの返書代わり、だ。 :-)


ハッカーの書誌学/SPLIT 4/「hack’em」

『免疫の意味論』

著=多田富雄,青土社,¥2,200 【BOOK】

自分自身が、なぜ、どのような仕組みで存在しているのか? 生命とは何か? ということを人間がハックしてきた経緯を生物学あるいは免疫学の観点から解説するこの本。この本の一貫したテーマとなっているのは、「自己」と「非自己」を区別するものは何か? という問題である。免疫学的には、「自己」と「非自己」とは互いに曖昧につながり、そして、「自己」とは行為の集合であり、その行為を規定しているものは内的および外的環境のみである、そうだ。いちおう一般向けに書かれてはいるのだろうが、それでもかなり難解なこの本、しかし、エイズ/エボラ/アレルギーなど、最近人間をじわじわを追い込んでいくものの正体について知りたければ読んでおいて損はないのかもしれない。ちなみに私は、イェルネが「現在」どのように受け取られているかを、この本を読んで初めて知った。が、私のような素人は、ネットワーク説の凄みに惹かれて止まないものがあるのも事実。

『精神と物質』

著=立花隆・利根川進,文藝春秋社,¥1,700 【BOOK】

この本はふたつのハックから構成されている。ひとつが(前書とも関連するが)利根川進が免疫と遺伝子の関連を実際的に解いていく経緯、そしてもうひとつが、立花隆のインタビュー行為である。前者。恐らくはこのインタビューでは略されているのだろうが、少なくともこの本に書かれている内容を読む限りは、彼が行なったことは「サイエンス」と呼ぶより、まさしく「ハック」と呼びたい行為である(もちろん尊敬をこめて)。そして後者。立花隆は、ノーベル賞を得た行為あるいは利根川進という人間の行為を、素人の立場から徹底的に切り刻み、その中身を調べ尽くそうとしている。これは他者が持つ「知」に対する明確かつ非常に強烈なハッキングである。どちらのハックも捨てがたい魅力のある書。

『ALTA VISTA』

http://altavista.digital.com/ 【WEB】

そして最後に『ALTA VISTA』(反則か、これは :-)。なにもハッキングは、著名ハッカー、ノーベル賞学者やジャーナリストだけの専売特許ではない。ハッキングなんて誰でもできる。今日も誰かが世界のどこかで、自分の興味も対象となるものを切り刻み続けているだろう。その対象が何であろうと、その行為はまさしく「ハック」である。そして今や、それら無数のハッキングの成果が共有され、ひとつの知の輪として繋がりつつある。ALTA VISTAは、この、人間が作りつつある壮大な「知」そのものをハックしようとする試みだろう。もちろんこの試みはまだ始まったばかりであり、決して完成はしていない。でも私は、これがヨチヨチ歩きであることを喜ぶ。なぜなら、前2書の領域は全く手が出ないが、ここなら自分が「何か」出来るだろうと自分自身を信じさせることが出来るから。


ハッキングというのは「非自己」に対する過剰な興味と好奇心のなせる技だ。そしてハッキングを極めることにより、その「非自己」を「自己」化したような幻想を抱く。しかし、やはりそれは幻想である。

あるいは「自己」をネットワークという「非自己」の大海に放り出してみる。そして放り出された大海で、網に絡まり、取り込まれ、「自己」と「非自己」の境界を見失い、途方にくれる。

大海で溺れた者は、また一人に、あるいは、一対一の関係に戻ろうとする。でも、もう戻れない。「自己」は「非自己」に規定され、「非自己」は「自己」の総体に規定される。それを見てしまった者は、自分自身の「自己」も、相手の「自己」も、実はそこには存在しないことを知るのだから。


無理ありすぎ。:-)

WWW特許

詳細は不明ですが、どうやらWWWを狙い撃ちした「潜水艦特許」が米国で浮上したようです。

これは、Ardneran Rekramrek という人がかなり以前に米国にて申請していた特許であり、

  • 計算機制御による文書の相互参照とその表示システム
  • 地理的に分散した資源に対する一意的名前付けシステム
  • データにその型を付与して受け渡すことによる文書以外のデータの表示システム

などが記されているものです。これからも明らかなように、HTML, HTTP, URL, Content-Type指定, Plug-inなど、およそ現在のWWWの基本となる技術すべてを包括的にカバーするものであるようです。

「潜水艦特許」とは、米国の特許制度に「出願公告」および「先使用権」が存在しないために、数十年の審査期間を経て突然成立する特許のことであり、その詳細は、以下の引用を見て頂ければと思います。

米国の特許制度は、これ以外にも出願公告と先使用権の有無に関して他の諸国と異なっている。出願公告というのは、出願の一定期間後にかくかくしかじかの特許申請が行なわれている、という事実を世間に対して公開する制度で、無駄な重複投資を防止することを目的としている(略)。一方の先使用権というのは、特許成立以前に(特許になるとは知らずに)それを使用していた人々を保護する制度である。

このところ、米国の発明家レメルソン(略)による自動車のワイパーに関する特許や、計算機制御による自動装置プロセス特許など、20年以上の審査期間を経て突然浮上した「潜水艦特許」が、それを古くから使用してきた企業を一網打尽にするケースが報告されているが、出願公告と先使用権制度があれば、このようなケースを防ぐことができるはずである。

(『カーマーカー特許とソフトウェア』,今野浩著,中公新書1278,73頁より引用)

今回、この特許が米国で成立したことにより、WWWに関連するシステムを商用利用する際には、Rekramrek氏に特許使用料を払う必要が生じる、とのこと(ただし大学などでの学術利用は除く)。

ちなみに、この特許が米国以外でも申請されている/成立しているかどうかは不明です。

さ〜て、こりゃ大変だ。WWWもこれで終わりなのか、なのか?