ピクスピ寺本さんの『WWW日記について考えてみた』を読んだ。
寺本さんの言わんとすること自体は良く分かるけど、唯一、「淘汰」という言葉に対してどうしても引っ掛かりを覚えてしょうがないので、寺本さんの真意を(たぶん)敢えて曲解して、「淘汰」という言葉に喰って掛かってみたいと思うっす。
『WWW日記について考えてみた』より、
ハイパー日記界にももうすぐ淘汰始まる雰囲気をやたら感じるので要注意つー内容だ。
こだわりを持って好きだ!と言えるものがある人なら、そんな簡単に「淘汰」などという言葉を使いたくはないんじゃないかと私は思う。何でもいい。本でも雑誌でもレコードでもテレビ番組でもポテトチップスでも。自分が好きだったものが「淘汰」されてしまって手に入らなくなった時の悲しみ、それを知ってる人なら。この私が愛するものが「不要」だって、一体誰が決めたんだ! 出版社? 取次店? 書店? 俺は欲しいんだよ、勝手に無くすなよ〜、つーか。
その点、Webっつーのは、ものごとが「淘汰」される必然性のない、面白い流通形態だと思う。別にクソなページがあったって、誰も困らんけんね、ちゅうか。単に誰にも読まれず存在すればいいだけ。提供者以外の誰にコストが掛かる訳でもなし(実はこの点自信ない)。それが可能な媒体だと思う。
「誰にも読まれず存在云々」っていうのも本当はちょっと違って、数千万人(?)の参加者のうち、たった2〜3人が読んでくれればイイ、というものが存在できる媒体、と言った方が正しいだろう。
前に某広告代理店関係の人と話をしていて印象的だったのは、いわゆる広告業の人々は、15秒なら15秒のCMを15秒間分余すことなく全ての人に全てを伝えることに命をかけている、らしい。
一方Webはといえば、私の考えでは、全ての人に全てのページを余すことなく読んで貰おうなんてことはそもそも考えちゃいけない。例えば100のページが用意してあって96番目のページはほとんど誰にも読まれないとしても、ある日ある時たったひとりの人がそのページを必要としたとき、「あぁ、あったぁ〜。よかったぁ〜」と言って貰うために100個のページをあらかじめ用意しておくことができる、そんなメディアだと思う。
と私が言ったら、相手の某広告代理店関係の人は「面白い考え方ですね〜」と言いつつも、なんか釈然としない様子だった。
この考え方は間違ってるんだろうか? 間違ってるんだったらそれまでだけど、もしちょっとでもそういうことを考えて良いんだったら、Web界に「淘汰」なんてことは絶対に起こって欲しくないし、そもそも起こす必要のない場だと思う。
と、無理に一単語に喰って掛かるのはここまでにして… :-)
実際、寺本さんの言いたいことはそういうことではなく、「読む側が自分で選択することが重要になるよね」「厳選されたもののディレクトリが出てくるよね」「内容とは関係なく選択されちゃうこともあるからプレゼンテーションには気を付けようね」っていうことだろう。それは本当にそうなるだろうし、必要なことだろう。でも、そういった選択から漏れてしまったものも、ちゃあんと存在しつづけて欲しい。選択から漏れてしまったものの存在自体を否定するような風潮だけは絶対に出てこないで欲しい。というのが私の切実なる願いです。それを必要とするたった2〜3人のために。
あと、クリックしたらクソページが出てきたときに、「ばかやろぉ〜」と単純一方的にそのページの作者に対してのみ怒ってしまっていいのか、というのは、昔の日記にものちらっと書いた、「クリックする意思」というのに関係してくるんだけど、これはまた考え出すと何がなんだか分からなくなる大問題なので、またいつか書きます。
あ、そうだ、
『WWW日記について考えてみた』より、
日記の数が多くなったことで、ただ日記をつけてる時代から、見せ方とか整理の仕方が比較されちゃう時代になると思うんだよね。そういった外見の部分に気をつかうかどうかってことが、その人のWWWに対する姿勢、「読んで面白いかどうか」を知るキーポイントのひとつになる気がするぜ。
なんだけど。はい、私の日記の各ページには日記のインデックスに戻るリンクとか何にも用意されてません。ダサイですね、はい。すんません。
ちなみに私のページにそんなんが多いのは、むか〜し昔のそのまた昔、世の中にはproxy serverもdelegateもなく、<Back>ボタンと<Forward>ボタンで移動した時にしかキャッシュが効かないブラウザ(xmosaic-0.9とか :-)を使っていた、そんな時代のトラウマ以外のなにものでもないので、勘弁してちょ、つーか。
だってリンクを使って「元に戻」らせると、その度にサーバにアクセスしに行って、遅くてしょうがなかったんだもの。:-)