「すいません、Louisianaにはどうやって行けば...」などという会話が交わされていないことを切に祈るっす。:-)
「ここはDenmarkだよ、兄ちゃん。Louisianaならアメリカに行きな」
で、榊原くんの日記の「終戦50年 [Aug 15 1995]」を読んで以来ずっと引っ掛かってたことを、ちょっと書いてみる。
絶対的な責任の追及の甘さ.
これは戦争についてよく問われる日本の甘えの構造.
地震についても何が天災で何が人災であったかの追及は殆んどされていない.
...
日本の政府の対応とそれについての国民の反応を見ている限り,責任の追及を 今更乍らにやろうと云う気持ちはここにはないらしい.
「絶対的な責任の追及」って、本当に日本人はしないですね。なんでこんなに出来ないんだろ? 昔から駄目だったのかなぁ。それともよくありがちな、高々最近50年か100年の現象なんだろうか?
戦争...
今回オウム真理教がやったと巷で言われていることが50年前までに日本がやっていたことの貧小なコピーだとすれば、それに対して司法・行政・立法・マスコミ&日本人ほぼ全員が今やっていることは、まさしく50年前の精神構造の忠実なるレプリカント。「一億総火の玉となりて、いざ、鬼畜オウムを殲滅せん!」ちゅうか。
もし仮に今回のオウム真理教関連の騒ぎが本当に「権力のデッチあげ」だとしても、なぜそんなことになってしまったかの絶対的な責任の追及は、何もなされないだろうし、誰もする気もないだろう。
そんな「もし仮に」が到底考えもつかないなら、例えば、更にその精神構造の卑小なコピーである「松本サリン事件河野さん犯人扱い騒ぎ」の絶対的な責任の追及でもやってみたらどうだろう。(河野さんにとってみれば、「どうだろう」なんていうのは失礼な物言いだけど。)
でも、今のとこ、やられてないし、今後も、やられないだろうなぁ。
10年前まで三公社五現業のひとつだった某民間企業にも「失敗」は(どこの組織にもあるように)あるけど、誰の責任かが徹底的に追及された話なんて聞かないものなぁ。
あぁ、ここにも凡小なるコピーが...