昔は,実際には超「おいてけぼり」状態だったが,「おいてけぼり感」を民衆は持ち得なかっただけなんちゃうかと.説明の量・質,情報の量・質であれば今の方がはるかに多い・良いであろう.
信任にしても,別に64年時点でオリンピックに対する個別的な信任があった訳ではなく,もっと別の「大きな物語」への信任についてくる「おまけ」みたいなものだったのではないだろうか(大きな物語=成長,とか?).
パクリだ云々の話にしても,なぜみんなこの話がこんなに好きなのかまったく分からないのだけどw,これにしたって"noisy minority"が,アテンション・エコノミー,アフィリエイト・エコノミー,炎上エコノミーにドライブされて無駄に増幅されてるだけで,(SNSでは面白がっていいねとかシェアしている人々も実はというのも含めて)多くの人は別に何ともどーでもいいとしか思っていないんちゃうかという気が.
また,競技場にせよ何にせよ,ネットの巷の「こっちの方がいいじゃん」が本当に良い試しがない.過程を事後的にどの程度公開するかは議論があろうが,選考過程はプロフェッショナルに委託するしかないだろう.
エンブレムのリユース等が「ガチガチ」なのは,音楽著作出版や書籍出版で起きていることと多分一緒で,過去においてはガチガチ系の方が経済性に優れていたし,今でもそうだと信じられているから(そしてそれは多分事実)なのだろう.オープンでシェアにすることで,多少の経済性を犠牲にしても,「信任」が増えるのであれば考えられなくはないが,恐らくはそのオープン&シェアにおける主なメディアになるであろうネットの現状がこれじゃ,そっちに足を掛けるには普通はならない.ネットがdisりにも盛り上がりにも使われ得るのは裏腹ではあるけど,卵鶏どっちが先問題ではないし.
ひょっとしたら,日本じゃなくて,ギリシャとかロシアとかブラジルとかは,「勝手リユース」でどんどんと盛り上がってたじゃないかという気がしないでもない.日本でそれを妨げているのは実は組織委ではなく,コンプラ体質,私刑体質(一周してるな),そして何故か時としてお手柄主義の日本の警察さん達,とかだろう.
おでんの件も,正面から訊かれたらそう答えるに決まってるが,仮に強行掲示したとして恐らく何がどうなる訳でもない.その一方で,コンビニ本部の動きは洒落にならない事態になることは確実だ.
————
↑これだけ読むと完全に意味不明ですね(笑).これは,ここら辺の話
- 姉川 たく – facebook
多くの人の五輪エンブレム不信任の根底にあるのは、こういう思いなんじゃないだろうか。おいてけぼり感。エンブレム選考基準の中にどのくらい「みんなのテンションをあげて、一つにしよう!」みたいな、ここ何年も日本に漂う閉塞感やムードに答えるための議論がなされたかは、ブラックボックス化されているので、外からはうかがい知れない。でも、デザインやパクリ云々の前に、まずそこから掛け違えたんじゃないか?……
- 遠山 緑生 – facebook
ほんとコレだけど、コレはそもそも可能なんだろうか?
ちょうど「角川インターネット講座 (4) ネットが生んだ文化誰もが表現者の時代」の川上量生「日本のネット文化と精神風土」の嫌儲厨の説明とか読んでたんだけどさ昨日。
なんだかまだよく分かられてなくて、……
を読んでの感想というか,溜まってたことを一気に書きたくなってのチラ裏&一気書き,でした.