2015年07月の記事一覧

中華疆界変遷

(そもそもはFacebookの増井さんのところでの話だったのだけど,人のポストにつけたコメントは後から見つけるのがかなりつらいので自分とこにコピる→日記にも転載する)

1945年より前の中華民国の「中華疆界変遷図」なるものらしいですが,赤線で囲ってあるのは朝貢国も入れての過去最大版図ということのよう(凡例の1文字目が読めない."?時國界",萬?).

個人的に意外だったのは樺太と北ボルネオ.

ということでWikipedia頼りで調べてみると,どちらも朝貢したことがあるみたいです.そこら辺はちゃん何らかの根拠に基づいてるのかもしれないな,とか思った.

1264年 – 蒙古帝国(のちの元)が3000人の軍勢を樺太に派兵し、住民の「骨嵬」を朝貢させる。
樺太 – Wikipedia

ブルネイの朝貢については971年に当時の宋に対して行った記録が残っている。当時のブルネイの情勢は、南宋代の書物『諸蕃志』に「渤泥国」として記録されている。
ブルネイの歴史 – Wikipedia

ちなみにもう少しググってたらこんなん(台湾は「日本の生命線」 ── 「台湾問題」の向こう側にある「もの」)でました.こちらにある「1953年度北京政府発行国定教科書『現代中国簡史』に基づく」情報だと,北ボルネオは旧版図に入らないようにも読める.

でも何で日本は入っていないんだろ? 朝貢はしてるし,(正統性は怪しいのだろうけど)足利義満が日本国王に冊封されてるぞ.単に地図作成当時の力関係からなのか.実はそれほど原理的な(理屈がある)ものではないのだろうか.不思議だ.

マスメディアの無謬性

相変わらず面白い.

こういった「多くの目玉による検証」と「逐次記録性」に晒される以上,マスメディアたりとて今までのような無謬主義のままでは到底持たない.では無謬性を一片も持たないものがメディアとして成立するかというとそれはどうなんだろう? という.(程度問題なのか?‥‥違う気もするし)

何のことかというと,朝日新聞の箱根山「噴火」の記事の件.

箱根山で火山灰確認 「噴火だが噴火の表現適切でない」:朝日新聞デジタル

当初はこんなだったらしい.

見出し:箱根山で火山灰確認 気象庁「噴火だが噴火と呼ばない
本文1:同庁は「……影響もあるので、噴火とは呼ばない」としている。 
本文2:……火山活動評価解析官は、今回の噴出現象について、「理科研究の小学生に、噴火かと問われれば噴火だと答える。ただ、気象庁では噴火と記録はしないと説明する」と話した。

既に上の記述は差し替えられて無くなっているが,当初掲載時の内容の断片を見つけることはできる.例えば「現象は噴火だが噴火とは呼ばない | Walk in the Spirit – 楽天ブログ」とか「朝日新聞東京報道編成局のTwitter投稿」とか.

そして以下の経緯を辿る.


『噴火だが噴火とは呼ばない』って何だそれ,隠蔽だ! 気象庁何考えてるんだ,等々のプチ炎上.

そもそも「噴火の記録基準」という気象庁の規定(噴火の記録基準について [PDF])があってだな,という冷静な解説が出る.

朝日新聞,記事を差し替える.

見出し:箱根山で火山灰確認 「噴火だが噴火の表現適切でない
本文1:同庁は「……影響もあるので、噴火との表現は適切でない」としている。
本文2:…………火山活動評価解析官は、今回の噴出現象について、「理科研究の小学生に、噴火かと問われれば噴火だと答える。ただ、気象庁では噴火と記録はしないと説明する」と話した。

見出しはともかく本文中の「」内,つまり取材対象者の発言内容まで変わっているのはどういうことかと.
本文2で言われていることは,内容を理解した上で読むと,極めて的確な表現だということが分かる.

一方で毎日新聞の記事を見てみると,そもそも表現が異なる.たぶんこちらは正確なんだろう.情報源というか取材機会は同じなんじゃないかと思うのだけど.

気象庁は21日、神奈川県の箱根山・大涌谷で同日午後0時1分ごろ、約10秒間にわたり、噴煙に火山灰が混じる現象を観測したと発表した。
灰が飛んだのは火口周辺の狭い範囲で、同庁は「ごく小規模な現象で噴火とは記録しない」と説明、……
箱根山:噴煙に火山灰が混じる現象「噴火とは記録しない」 – 毎日新聞

(多少の経験がある身としては)気象庁さまお気持ちお察し申しあげます,という感に堪えない.

関連まとめ:“噴火だが噴火とは呼ばない”改め、“噴火だが噴火の表現適切でない” – Togetterまとめ

分かりやすい説明はこちら:箱根山大涌谷で火山灰観測 「噴火とは言えないレベル」気象庁 | ハザードラボ

確かな情報を得るには,このような専門系で信頼に足るところを自分で見つけていくしかないのだろうか……でもそれって大変だよな……って本当はそこを埋めるのが“キュレーション”ではなかったのか(遠い目).

立憲主義と教養

みんなすごいですよね,立憲主義の大切さや危機について声を上げていて.

しかし個人的な疑問なんですが,いったいみんな,いつどこでどうやって立憲主義なんてものを知ったのでしょうか?

私が立憲主義なるものをちゃんと認識したのは小室直樹さんの著書から.正確な時期は覚えてないけど,少なくとも大学生以降であることは確か.ひょっとしたら就職後かもしれない.刑法には「人ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ三年以上ノ懲役ニ処ス」と書いてあるけど「人を殺すな」とは書いてないとか,だから「刑法に違反」できるのは国だけ,みたいな話も書いてあった.そして憲法が縛るのは国民ではなくて国(政府や政治家?)だと.

大変尊敬しておりまた多くの著書を読ませていただいていながら失礼を承知で言えば,やはりどう考えても,小室直樹氏の著書というのは「正当な」教養の入手ルートとは言い難い.

単に私が,中学高校の社会の授業や大学の教養課程の講義を全然聞いていなかっただけかもしれない(その可能性は極めて高い).先生達ごめんなさい.大学なんて,政治学は永井陽之助さん,社会学は今田高俊さんだった気がするのだが.なんともったいない.

また単に,たまたま中高生のときにその分野の正しい啓蒙書に出会う機会がなかっただけかもしれない.理数系方面では,例えば遠山啓さんやロゲルギストや本間龍雄さんの著書に出会っていたが,それは単に幸運なだけだったのか(彼らの著書が「正当」かどうかは正確には分からないが大きく間違ってはいなかったように思う).果たして数十年前に誰の著書に出会うべきだったのか? 今だに分からない.

(と,これを書いていていま思ったのだけど,実は岩波書店が特定分野では特定方向に傾倒していたのが問題の根源だったりしてw 理系分野はニュートラルで良かったなあ…… いや,どうだか知りませんが)

その手の教養を得るための想定正規ルートは一体どこら辺にあったんだろう? 正直分からん.分からん,ので,立憲主義!とか言ってる人をみると,ちょっとだけ眼差しに疑いの色が交ざってしまうのであった.いったい,いつどこで知ったの???

あ,そうか.文系の人はちゃんと学ぶルートがあるんですね! いいなあ……

(無理に文系理系に話をもっていく必要はないだろ>自分w)

P.S.
例によってここで日記に書く前に同じ内容をfacebookに書いてるのですが,そういうこと書いても(なお),さっきググった結果を貼る人はいても,自分はいつどこでどういうルートで学んだって言ってくれる人はいないんですよね.ほんとうに謎.

彼我の差

これを読むと別の意味での彼我の差を感じざるを得ない.

最後に政治家を縛るものは何か? | 岡田憲治

米国公民権運動の場合.(ここには書かれていないがそもそも)その100年前に奴隷制を廃止し人種に依らない参政権を規定する憲法修正をした(これが国民の合意に基づくものであれば美しいのだが実際には戦争の結果).いったん私人による差別は合法化されるものの,公的機関による差別を認める州法への違憲判決が出て,その後に公民権法が制定される.一連の過程では憲法を頂点とした法に基づく手続きが尊重されている.デュー・プロセスの国である.

一方で日本の安保法制はどうかというと,政府見解による憲法解釈の変遷と個別法の制定(と違憲訴訟の門前払いの山?)だ.なんだそりゃ.気を取り直して,では憲法解釈とはどういうものかというと,自衛戦争と自衛行動は違います,自衛戦争のための戦力と自衛行動のための実力は違います,という話らしい.なんだそりゃ^2.いったいそれらのどこに憲法を尊ぶ規範意識があるのか.そして誰が悪いのか.……日本だ.

件の参考人の憲法学者の先生方に私が感じた印象も同根なのだろう.もしあの場で,そもそも自衛隊の存在自体が違憲です,とか,だいたい違憲状態の手続きで選ばれている可能性が高い貴方がた国会議員の正当性自体が疑わしいし,そんな貴方がたで構成されるこの国会・この審査会の正当性についてどうお考えなのか,とか言ってくれたのであれば諸手を挙げて信頼できる.そうではなく,所詮,安全かつ効果的なフレームを設定してその中でアピールをしているだけなんじゃないかと.

同じくHuffington Postにこんな記事が出ている.

【安保法案】集団的自衛権、憲法制定時からこんなに変わった

「立憲主義の危機」はいったいいつ始まったのだろう?

“なあなあ主義”は日本らしい.実は私は“なあなあ”で動いてるものは無理に変えないでもいいんじゃないか派でもある.正確には,“なあなあ”はいつか必ず破綻するが,それがいつかは事前には予測不可能(従って「今が立憲主義の危機!」と言っている人は占い師や予言者だと思ってる),“なあなあ”は破綻の(遥か)手前で修正するか,破局を迎えてから対処するか,どちらをとるかはリスク/コスト/ベネフィットで判断するしかない,派である.

この“なあなあ”を破綻の手前で修正する選択肢はいくつかある.自衛隊を無くし警察力/災害救援力という位置づけを明確にしたものに変更する.あるいは,(今回の改正案ではなく)2001年のテロ対策特措法成立時より前のどこかの状態が明確に合憲であるよう憲法を修正する.その後の政権交代を経ても,そのままの状態で置かれていたものなのだから,(日本共産党等を除いて)反対はあるまい.

……

最後にリンク先文章の本題だけど,最後の安全弁を政治家の規範に求めるというのは正しい姿なのかなあ? 最後の砦は人(の規範意識)であるべきというタイプと,最後の砦は仕組みであるべきというタイプと,人類は2つに別れるような気がしないでもない.それはまた別の話.

(なぜこんな長文になるんだ)

コンピュータの定義とプログラミング

世間には「それ自身でプログラミングできないものはコンピュータじゃない」派の人が一定数いるのだけど,それだとマイコン(PIC, H8, AVR等々)はコンピュータではなくなる.私は,それらもコンピュータだ派,なんだけど,つまりそれは,「コンピュータ」の定義がそもそも異なる訳だ.

来るべきIoT(でも何でも言葉はどうでもいいが)時代は,そこら辺を,どう考えればいいのやら.(この話にオチはない)