2013年03月の記事一覧

ダビスク

堀江貴文氏仮釈放記念に,こんなページを貼りつつ昔話.

ダービースクエア(以下DS)といえば日本のページの草分け的存在である。その名前が無くなるのは寂しいことであると同時に、時代の流れというものを感じる。WWWといえば初期のころは個人ページが中心で、熱心に取り組む企業は少なかったが、今では雑誌、新聞、テレビ等の既存メディアのページが多く立ち上がっていて、他メディア出身のページは充実している場合が多い。

DSは1994年に現オンザエッジ社長のほりえたかふみ氏が始めたページであり、もちろんその当時は他に類を見ないぐらい充実したページであり、後にほりえ氏がオンザエッジを立ち上げ、オンザエッジが運営するページとなった。いわゆる個人ページが発展して会社まで作ってしまったパターンである。……

インターネット競馬界 一時代の終わりと始まり

その昔,日本語が使えるウェブのディレクトと検索エンジンのハイブリッドのようなものを作っていた時期がある(結局陽の目を見ずに終わったが).正確な時期は忘れたが,そんなことをしていた頃,突然,日本の競馬/競走馬の情報がウェブ上に乗るようになった.

競走馬名というのは実は非常に恐ろしいもので,通常思いつくような日本語の単語や外来語の転写を片仮名にすると,ほぼ必ずその「カタカナ文字列」を馬名に含む馬がいる(あるいは過去に存在した).

つまり片仮名キーワードで検索すると,そのキーワードを含む馬名がヒットしてしまう.当時のウェブの使われ方というか私個人としては,それは意に反した結果であり,日本語処理もPage Rankも何も,何の工夫も無いアルゴリズムで検索結果に出てくる馬名はノイズでしかなかった.(暴言陳謝>愛好者・関係者の皆様方)

そのときの印象では,単に有名馬や競馬ファンのページがあるというより,競走馬名を網羅的に載せているサイトがあったように思えてならなかった.それが「The Derby Square」だったのかどうかは,当時も今もはっきりと認識していないのだが,後から考えるとそうだった気がしてならない.

あの頃,検索結果に並ぶ馬名を見ては「げー」とか「くそー」とか私に言わせていたのは,ひょっとしたら堀江氏だったのかもしれない.

P.S.
こんなん見つけた.「競馬ブログ オケラセラ

さらに,“INTER IT : IT’s Work Style TAKAFUMI HORIE”とか.

紙上プログラミング

20年以上昔の話.

その頃は,大学や会社でするプログラミングは家ではできなかった.コンプライアンス規定でソースコードを家に持ち帰れない? いやそんなことじゃない,というか「コンプライアンス」なんて日本語は,その頃は存在しなかった.

もちろん「パソコン」は当時もあったし,そこではBASICもTurbo PascalもオモチャのようなCコンパイラも,もちろんアセンブラも使えていた.でもなぜか大学の研究室や会社でのプログラミングはUNIX上でCやLISPやその他諸々を使ってやるもので,個人のパソコンでのプログラミングとの間には,大きな隔たりがあった.

UNIXマシンは大学や会社にしかなかった.ネットワーク? モデムは確かにあった.だが(以下略).

とにかく,プログラミングができるのは大学や会社のVT-100コンパチ端末かワークステーションを使っているときだけ.じゃあどうするかというと,その日の最後,帰る直前に必要な部分のソースコードをプリントアウトして持って帰る.プリンタはラインプリンタだったりレーザープリンタだったり.

そして家に帰るとそのプリントアウトを見ながらデバッグする.修正したコードはその紙に書き込む.もちろん手書き.紙上デバッグ.家で新しいコードを書き始めるときは,まっさらの紙にプログラムを手書きで書いていく.紙上プログラミング.

次の日,デバッグ済の紙や新しいコードを書いた紙を持って行き,それを見ながら,キーボードで紙のコードを入力していく.やったデバッグ完了!

まっさらの紙に書かれた新しいコードは,新規ファイルに入力し,そしてコンパイル(make)する.たまに一発でコンパイルが通ったりする(もちろん一発で通らないときの方が多い.紙上プログラミングの間違いだったり,打ち込むときの入力ミスだったり).さらにたまに,コンパイルしたコードが一発で思い通り動いたりする.そういう時は,ひょっとして自分は才能あるんじゃないかと思ったりする(←勘違い).

若い人どころか今や中年の人にとっても何を言ってるのか分らねーと思うが,要するに,紙とペンでプログラミングをしていた,という話.

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友人達のNPOが「ビスケット塾」という表現や創造や論理やプログラミングを教える活動を始めた.そこで使われているのがViscuitというビジュアル・プログラミング言語.

塾でレッスンをうける子供たちが,ビジュアル・プログラミング言語の「プログラム」の「設計図」を紙に描いている,その様子を見ていたら,自分が20年以上前にしていた本物の紙とペンでのプログラミングを思い出した.

レッスンの特徴!設計図です。この設計図をもとに作品をつくります。

レッスンの特徴!設計図です。この設計図をもとに作品をつくります。

omakeで継続監視ビルドも,継続的インテグレーションも素敵だ.でも,寝る前にプリンタ用紙をもう一度見ながら,このプログラムで動くかなー,と思う気持ち.それも充分に素敵なものだったと思う訳だ.

(この文章は,お分かりかとは思いますが,よしおかさんの「我が青春の東急東横線渋谷駅改札。」にも一部触発されております,が,あの勢いには到底及びません……)

MISIAと宇多田ヒカルとDragon Ashが渋谷系を殺した(たぶん違うけど)

“渋谷系”を殺したのはCoccoであり、椎名林檎であり、MISIAであり、宇多田ヒカルだった。」という話.モーリさんは否定的だけど,現象面としては,個人的には割と納得感ある.

MISIAや宇多田ヒカルによってメジャーなチャート音楽を聴いていてもそこそこ質の良い音楽が聴けるようになった,という安心感みたいなものはあったのではなかろうか.渋谷系を聴いていたのは高い音楽性や趣味性を求める人だけではなく,チャート音楽の質にはちょっとだけ満足できない,という人々も居たはず.そういう層にとってみれば,チャート音楽の質が上がったのであれば,渋谷系のヤヤコシイ情報や音源の入手に煩わされるよりは,チャートを聴く方が楽で良い.そういう人達が移動することによって,ひとつのジャンルやマーケットが成立するクリティカルマスを下回ってしまった.

というような感じ.なので「後景に追いやられた」という言い方は,キッカケの表現としては間違ってるが,結果の表現としては妥当かとも思う.(個人の妄想です)

記憶が間違ってるかもしれないけど,1999年の3月か4月にJ-Waveで,MISIAと宇多田ヒカルとDragon Ashだけ対象のリクエスト特番っていうのをやってて,それを聴きながら「日本変わったな」と強烈に思ったのを覚えている.

モーリさんのfacebookの渋谷系考察シリーズ()を読んでたら何か書きたくなったので……

infotalkメーリングリストから20年

思えば今から20年前の1993年3月3日にinfotalkメーリングリストを作ったのだった.別ML(pp)からの脈絡のないw 5人からのスタート.でもその日のうちに渡辺洋一さん(youchan)が入ってる.

その後,私はここを(も)通して世の中が変わり,ある意味,私らさえも追い越して行くのを見ることになる.既に閉鎖済なので二十歳という訳ではないが,その恵みが今も確実にSNSの友達やTLの豊かさとして継承されている.感謝.

Real-Writer: TAKADA Toshihiro (高田敏弘)
Real-Date: Wed, 03 Mar 1993 15:27:36 +0900
Subject: [infotalk,00001] “infotalk@square.ntt.jp” starts!
Message-Id: <9303030627.AA25081@seraph.ntt.jp>

たかだです。

つー訳で、えびさんからML管理スクリプトを御贈答頂き(感謝 _o_)、 Gopher,
WWW, WAIS などなどに興味を持つ人へのMLを作りました。取り敢えず名前は、

infotalk@square.ntt.jp (InfosystemsTalk mailing list)

ということで(もっと良い名前募集中)、ま、MLの内容は、ヨタ話でも技術的な
議論でも何でも、飛んで行く方向に任せたいと思います。

……