1995/08/03 (木)
せっかく一日サボって日記の日付を合わせようと思ったのに、竹中さんに直球で返されてしまったので、しかたなく書きます(嘘)。
たまたま同じようなことを別のとこでも書いたんで、それを使い回ししてしまうんだけど、「Unicode対2022」論争については、もう、最近どうでもよくなってきた。Unicodeでも2022-basedでも何でもいいから、とにかく、とっととやろうぜ、みたいな。概念的な美しさよりも、Unicodeも2022もすべてを飲み込んでしまうようなイイ加減なものを、まず作っちまうのがイイんじゃないかと。
だいたいCJK-unificationは良くないとかいっても、問題の多さに関しては五十歩百歩の(私の戸籍名も表せない :-) JIS X 0208を普段平気で使っていながら、その同じ筆、もとい、同じ文字コードでUnicodeの文句を書いても説得力はないぞ、ちゅうか。
で、やりたい人には1文字4バイトなんてケチなこと言わずに、どぉ〜んと1文字8バイトでも16バイトでも使って、「Unicodeにも2022-basedにもupper-compatibleだっ! おまけにどんな文字でも入ってるぜぃ。」てなもんを作ってもらう、と。名前は"100646"か"Umicode"だな、やっぱ。:-)
と、(今までの文章とは何の関係もないんだけど)今日のとある出来事において、「やっぱ日本はもうダメなんじゃないかなぁ。」「人のやる気をなくさせる雰囲気に包まれきってる(大企業とか役所がからむと特に)。」なんてことを思わされつつ家に帰ってきたら、新聞とニュースは昨日のABCに続いて今日はCBSで、さらに「はぁ」とかいう気分になってしまった一日の日記であった。
(にしてもこのYahooの[Xtra!]はすごいな。とうとう現実世界との敷居をなくしちゃったじゃない。)
という訳で、ちゃんとは打ち返せませんが、もっと球投げ込んでください、つーか。:-)
そいでわ。
1995/08/02 (水)
いかん。昨日の日記、日付を完全に勘違いしてた。思いっきし「8月」とか「一昨日」とか書いちゃったんで、もう取りかえしがつかん。つー訳で、この日記帳は一日進んでます(なにそれ :-)。どっかで一日サボれば元に戻るでしょう。 (-_-;
今日は特に書くこともないんだけど…
よーやくIndyとIndigo2にNetscape 1.1IS入れた。ちゃんと日本語出るじゃな〜い。えらいなぁ。これでCCI (だっけか? 日本語ビットマップに展開するやつ)ともお別れだぁ。結構味があって好きだったんだけど。:-)
そういえばYahooが新しくなりましたな。この手のバージョンアップって大抵失敗なんだけど、Yahooの場合はどうだろう? Yahooは何時までYahooたり得るのだろーか?
NetscapeとYahooといえば、一時期、Netscapeの"Net Directory" ボタンを押したときに出ていた、
A Winner is Yahoo!
ってページは印象的だったなぁ。それまで10個とか20個とかのディレクトリ・サービスが列挙されていたページが、ある日突然その1行だけのページに変わった時の感動、つーか。あ〜、あのページ、セーブしておけばよかったなぁ。やっぱWebページは生鮮品ですね。美味しい時に冷凍保存しとかんといかん。
そいでもうひとつのネタは、今朝(あ、日付は一日進んでるんで1日付ですよ :-)の朝日新聞に載ってた、富士フイルムとEastman Kodakのインターネットを使った情報戦、つー話。その記事の中に、富士フイルムが記者会見の資料としてフロッピーディスクを配ったということが書いてあった。訳知り顔の人間がこれに「このインターネットの時代にフロッピィ?(嘲笑)」とかいうツッコミを入れる、というのは極めてありがちなパタンだけど、でも本当はそんなことは全然なくて、これは素直にエライことだと思う。
だいたいフロッピーを配ったことが記事になるくらいなのだから、これは(少なくとも日本では)画期的なことだったんだろう。そうだよな。実際、1月の地震の時に痛感したのは、「デジタル化されたデータ」の力というものを行政機関・マスコミ・その他諸々は全然分かっていなかった、つーことに尽きたのだから。だから「フロッピーを配る」という行為は、ものすごく評価していいことだと思う。
「いんたーねっと(まるちめでぃあ、でも可)は、まずフロッピーから始めよ」、ちゅうか。
1995/08/01 (火)
おう、8月だ(意味なし)。
一昨日は「きくちゃんの絵も野茂の球も世界共通の言語でいいなぁ」などという謎のセリフでお茶を濁してしまったけど、今日はちょっとマジだぞ。
という訳で、言語の力というか知の力について。
結局のところNetscapeは標準で日本語をサポートしてしまったために日本でもしっかり覇権を握ってしまった訳だけど、聞くところによるとこれは、日本人が出掛けて行って日本語の部分を作って来たとかいうのではなく、あちらのNetscapeにおいて、日本に留学経験があるといった程度のchinese americanなど数人が作ったということだそうな。(Netscapeの日本法人ができた今はどうなってるのか知らないけど。)
なんでそんなことが可能なのか? 実際に作った人間に会った訳でもなければ話を聞いた訳でもないけれど、それは、ひとつにはKen Lunde氏の功績だと断言してしまいたい。
実際それほど、例の河豚本 ("Understanding Japanese Information Processing")は偉大な本であり、まっとうな理解力とプログラミング能力がある人間がこれを読めば、とりあえず日本語をハンドリングする程度のソフトウェアは必ず書けてしまうはずだ。それこそが「知の力」であり、「知を言語によって他に伝える力」なんだろう。
翻って日本を見てみればというと、「河豚本」を超える、どころか、これに相当することがきちんと書かれた本すら未だに一冊もないのが現状だ。(しかし本当にないのか! もしあったら教えてください。あ、「JIS規格」というのは却下です :-)
もちろん、「河豚本」の内容だけでは単に日本語が表示できる+α程度のことしか実現できないのも事実である。で、よく、「結局1バイト言語圏の奴らには日本語のことなんて分かんないんだよなぁ」みたいなことをいう人がいるけれども、それはやっぱり、「自分が分かっていること」を他人に伝えることができない能無しの言うセリフなんだよな、所詮。悔しかったら試しに伝えてみれ、っちゅーか。
現在日本では「河豚本」の日本語訳が進行中とのこと。なんでこの本を翻訳で読まなければいけないんだぁ。いや翻訳が出ることはものすごくいいことなんだけど、なんでこれに相当する本が日本人の手で書かれないんだ!
Netscapeを使っていると、たま〜に河豚本とNetscape 1.1Nの存在そのものがアメリカの底力を体現してるような気がして打ちのめされそうになる。日本にだって当然、理解力もプログラミング能力も独創性も立派にあると思うけど、この「知を書き表し伝える力」は無い… んじゃないのかぁ、ひょっとして、とか。
てな訳でNetscapeを使ってる人はKenにもちょっと感謝しましょう、という話でした。はぁ。