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1995年05月07日からの日記

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おフランスにいるざ〜ます

別に隠していても、さまざまな筋からは容易に類推可能であろうから、自分で書いてしまうと、今、私は、一身上の都合により、Lyonにおります。まさにこーゆーのを、「一身上の都合」というのだらう(分かる人のみ分かるだろう)。

しかし、ほんとにフランスはフランス語しか通用しねーなー。まったくまいった。

今はこうしてSatolas空港にいる訳ですが、空港行きのリムジンバスの中で初めて英語のアナウンスを聞いて安心する奴、ちゅうか。

今を去ること6年前くらいに、パリ→バルセロナ→ローマ→ロンドンという、いかにも日本人な日本人観光旅行したとき、ま、その当時は、今に較べれば全然英語できなかった(勿論今でもできないが)時でも、あの、ロンドンに着いた時の安心感を再び思い出してしまった、というか。あの、とりあえず空港のアナウンスが何言ってるか分かるという安心感(その割にはタクシーに乗って『ピカデリー・サーカス』と言ったら通じなかったが)。

あ〜、一応、私、第二外国語はフランス語だったんですけどね〜。1年の時にフランス語を落としまくったおかげて、2年の後期は週の2日(火木だったかな)の午前中は全部フランス語の授業で、『理学部フランス語科』とかいって笑ってたんですけどね〜。ほとんど使えないっすね〜。

しかしともあれ、Lyonの人々は、皆々やさしいというか人当たりが良いというか、んで、{Colored,Asian,Japanese}{差別,反感}を感じさせないというかで、良かったのだけれども、それが故に、なおさら、フランス語を全く解さない私めが申し訳ない、ちゅうか。

  • 何だか分からんが街角で突然話し掛けてくれた御婦人の方
  • カフェの隣の席で(後から考えてみれば)「この椅子に私のコートを置いていいか?」と尋ねてきた老紳士の方
  • いきなし『えくすきゅぜもあ、ぷーぶぶむぷらんどるあんふぉと』とかいう(多分彼らにとっては意味不明の言語で :-)話しかけたらちゃんと写真を撮ってくれた善良そうな青年
  • いきなし部屋に電話してきてフランス語でまくしたてるので『じゅぬぱるればふらんせ』と言ったらそいじゃ部屋に行くとかいうので何事かと思ったら私が置き忘れてきた札入れをわざわざ拾って届けてくれたホテルのレストランの親父
  • ついでに、怪しげな寄付だか署名だかを求めてきたので『のん』とだけ言ったら何事か怒鳴っていた若僧(くそったれ :-)

皆様、まことに申し訳ありませんです、ありがとうございました、はい、ちゅうか。

やっぱし、英語とフランス語と韓国語と中国語くらいはできたほうがいいのかな(無理に決まっとる)、とか思う、今日この頃。

マルテ日記力武日記(敬称略失礼)の影響で、若干、言葉づいてる最近の私、ちゅうか。


ところで唐突ですが、誰が何を言おうと、MSN (Microsoft Network)は偉大ですね。何も考えたくないのならば最高の全世界規模プロバイダです。私のようにFreeBSDからMSNに繋ごうとかゆー訳の分からんことをしようとさえしなければ…


さらに唐突ですが、最初フランスに着いたときに、何故に時間が1時間合わんのじゃ(自分で計算しても、200LXのWorld Timeでも1時間早くなる)と、完全に謎だったのですが、マルテ日記から手繰った伊藤さんの日記9月30日の日記を読んで、とりあえず、フランスも今年からそうなったのだ、ということにして自分を納得させたのでした。

あ〜、インターネット/WWW/Web日記の輪は便利だぁ、って、違うか。:-)


原理か可用性か、あるいは、選民思想

とーとつですが、榊原くんから教えて貰ったURLを2つ。

ふむ。


さて、HTMLは難しいか、だ。

難しいかなぁ。まぁ難しいっちゃあ難しいけど、安直っちゃあ安直だよな。

そもそも私めは、プログラムですらlintなんぞは通さない(コンパイル通って動きゃあいい)タイプの人なので、自分のHTMLで書いた文書ごときをlintしようなんてー気は全く起きないっす。タグ付が多少いい加減だろーとなんだろーと知ったこっちゃねー、俺わ、つーか(言ってることが全然違うぞ、勝手な奴 :-)。

というか、

この問題は、そもそもWWWというものをどのように考えるかとゆーか捕らえるかとゆーか位置づけるかによるのだよな、きっと。言わば、果たしてWWW/HTMLごときをそげなstrictなものにする必要があるんだろーか?、ちゅうか。

コンピュータや機械を使っていて厳密さであるとか難しさであるとかを要求されるとき、それは殆どの場合、人間の側に問題があるのではなく、テクノロジーの未熟さを人間に押しつけているが故の代物であることが多い。

だいたい、そもそもHTMLによるtaggingなんつーことを人間に(しかも多くの場合は普通のエディタで)やらせること自体が間違っているのだと思う。

まぁ、その手の(オーサリング+サーバ)環境が作られるより前にこれ程広まってしまったこと自体が意外というか想像を超えるものだった、というが個人的な感想ではあるけれども。


んで、

『バカでも使えるものはバカしか使わない』というのは、久保さんの「WWWノススメ」に出てきた台詞だったような気がするが(今はofflineなので確認できないけど、とりあえずリンクだけは付けておこう)、そーゆー意味では、その筋の技術者/研究者は、HTMLの厳密さの必要性などを叫ぶ暇があるなら、「バカ」(括弧付ですよ、誤解しないでね)に優しいものをとっとと作らんかい、おら、と思う今日この頃。

とはいえ、選民のための選民による選民の先端を目指す人々の存在は勿論大切だし、実際それが新たな領域を切り拓きいてきたのも事実ではある。

自分を、「選民のための選民による選民の先端で突っ走れるだけ突っ走る(から後はよろしく)」という立場に置くのか、それとも、「後のことを考える」という立場に置くのかは、自分自身のあり方としては、難しい選択ですね。

個人的な気持ちとしては、後者指向かなぁ…

という訳で、何の結論もなく、まとまらずに終わる今日の日記であった。:-)


<余談>
ところで、馬鹿に馬鹿な額ふっかけれらて、言われるがままに馬鹿な金を払って馬鹿な頁を作られ、そのまま馬鹿な頁を見せている馬鹿は、やっぱり馬鹿だと思うぞ、ちゅうか。:-)
</余談>

階層構造なるもの

なんか先週の金土は、厚木近辺の道路がどこもグチャ混みで、一体、ありゃ、何だったんだろー? やっぱし、半期末の週末だったりして、どこも忙しいのかなぁ、とか。

ところで、『半期末』なんつー概念は、個人的には、普段もあまり関係なかったりするのだけれども、世の中には、そーゆーのと共に生きてる人も沢山いるのねん、きっと。つーこって、これも、あたため過ぎて発酵してしまったっぽいネタです。何と、本日記初のインライン・イメージ付!、な、「謎の意味」です。 :-)


という訳で、世の中には階層構造というものが存在し、その一構成員となることにより存在している人々が沢山います。例えば、以下の図1において、D0を私、A0をある事項における最終決定者(評価者)とします。

階層構造
図1:階層構造

このような状況において、D0が何らかの決定を仰ぎたい、とする場合、まず、カクカクシカジカの決定を仰いで良いか否かについて、C0の決定を仰ぎます。

もし、C0の判断が「可」となった場合、次は、カクカクシカジカの決定を仰いで良いか否かについて、B0の決定を仰ぎます。

そして更にもし、B0の判断が「可」となった場合、ようやく、カクカクシカジカの決定をA0に仰ぐ、ということになります。

さて、この過程において、C0B0は何をするのでしょうか?

勿論、その「カクカクシカジカ」が自分以下の階層にとって正しいか否かを判断することが第一の作業となるでしょう。また、その「カクカクシカジカ」の中に自分の意見を挿入する、ということも欠かせない作業となります。

上記2点については、それは至極もっともな作業ですが、実はこのもっともな作業以上にウェイトが置かれるのが、「自分より1階層上の判断をシミュレートする」、という作業です。すなわち、例えばC0B0の判断をシミュレートし、なるべく良い結果が出るように「カクカクシカジカ」の内容を改変する(あるいはB0に余計な手間を取らせないように/不快感を与えないように「カクカクシカジカ」の提出そのものを取り止める)、という作業です。そして同様の作業を、B0A0を想定して行なう、という次第です。

基本的にこれらの過程において、各要素は勿論何ら悪意はなく、極めて真面目に、そして(個々の作業自体は)比較的効率良く、これらの作業を遂行します。

果たしてここに、何の問題があるというのでしょうか?


更に話は、これだけでは終わりません。

いわゆる日本的社会においては、「決定」というものは決定権者のみにおいて為されるものではありません。例えば、図1において、A0が決定権者である場合、その「決定」というものは、たいてい、A0を長とし、B0, B1, B2, …というメンバーから構成される会議によって為されます。

そしてそれは、B0の決定段階に置いても同様であり、C0, C1, C2, …から構成される会議が存在します。

なぜ、(例えば)D0から上がってきた事項に対してB1B2や、C1C2の意見が問われるのでしょうか? 恐らくそれは、客観的判断や階層構造のバランス(B-treeか、って、違うか :-)のためでしょう。

ここにおいても、基本的にこれらの方式は、悪意によって存在するものではなく、(恐らくは過去の)試行錯誤や真剣な議論の結果、これらの構造が構成されたのでしょう。

果たしてそこに、いったい、何の問題があるというのでしょうか?


いや、何も問題がないからこそこのような構造が維持されているのであり、その構造を破壊しようとすることこそが問題なのです。


な、問題なのですが、が、問題なのですね、まる。

落ち込む季節

とか言って、昨日は結局putしなかったなぁ。よし、今日こそ。:-)

さて、とーとつですが、私は基本的に、夏の人、なもので、昔から、冬というか晩春になると、めっきし落ち込んで欝欝したものでした。

だいたい、10月の末から11月の前半くらいがその時期だ、とゆーように自分自身では認識してたのですが、どーやらここ最近は9月にそれが来てるよーな気もします。

とゆーことで、でんでんやる気が湧かない今日この頃なのだな、ちゅうか。

しかし何だ。やる気があろうとなかろうと、日々のみは過ぎて行く、というのは不思議ですね。

何言ってんだか意味不明ですが、まぁ、落ち込む季節の戯言、ということで御勘弁ください。


しかし、「御勘弁ください」とゆーのも不思議な言い方だなぁ。実際、この日記は、読者、というものを想定して書かれているんだろうか?

こないだも、とある人と話していた時に言ったのだけれども、私は、この日記が誰に読まれているかとか、何件アクセスがあるかとか、全く興味ないっす。(極々初期の頃を除いて)アクセスログとか調べたことないし、調べる気もしない、ちゅうか。

変な言い方だけど、この日記を読んで一番おもしろいのは自分だと思う。

おもしろい、といっても、「わはははは」とか「ふんふん」とかゆーのではなく、何ちゅうか、「あー、こん時ゃこんなこと{してた|考えてた|思ってた}のかぁ」的な楽しみ方、ちゅうか。


とゆーよーな言い訳をもってして、最近冴えない日記と落ち込む季節を克服せんとする私であった。10月になると変わるかなぁ、変わらんだろうなぁ、まる。:-b

草の根ファシズム

いや、どうやら金曜日中に何とかなったよーです。よし、これ書いたら、一週間分の日記を一気にputしよう。

<脱線>
いつだったか誰かが日記で「『getする』って言い方は大嫌い」とゆーよーなことを書いてたけど、実はftpな日本人は昔から『getする』って言ってたよなぁ(あ、俺だけ?)。でもやっぱ、この『getする』と巷の『getする』は別の言葉だったんだろうなぁ。:-)
</脱線>

ということで、解散ですな。社民党は村山さんと土井さんの2人党首ですか。馬鹿ですなぁ。救いようがないですなぁ。ま、これでよーやく社会党も消えて無くなりそうですので(あ、「日本社会党」はもう無いのか)、まずわ、メデタイことです。:-b

ということで、選挙ですな。そーいえば、現在の公職選挙法ではパソコン通信やインターネットを用いた政治活動というものが想定されていないため、それらの活動は選挙違反になる恐れあり云々かんぬん、という問題は解決したんでしたっけか? 立候補者や政党の『ホームページ』は選挙期間中は閉鎖されるんだろーか? とか。アホですなぁ。

ということで、相変わらず脈絡不明ですが、NAVI 11月号の浅田彰氏/田中康夫氏の対談シリーズ『間違いだらけのニッポン』(p.p.148〜)の中のお言葉、「国民国家はなかなか安楽死してくれそうにもない」「"草の根ファシズム"がやってくる」、いいですな〜。

あ、別に、ファシズムがいいとか言ってるんじゃないですよ。でも、"草の根ファシズム", この言葉の響きが良いです。

つまりは、問題が個人のレベルまで降りてくることが可能になり得る環境になった、というか、降りてきたような/それが可能なような/組織や国家が不要であるような幻想を抱かせるまでになった、というか。

そんな響きが良いです。でも、それは幻想か、幻想でないとしたら水平線にポツンと見えるマストのようなものなのだろーけど。


あ、「中間半分ごっそり要らない」は、ある意味では明らかに事実っす(実際は半分以上じゃねーの? :-)。この件も書こう書こうと思いつつも書けずにいたのだけれども、xpaintインストールしたので、もう大丈夫、つーか(謎)。

# その謎の意味は2日後に明らかに! (多分 :-)。

ホームページ再考

先日の日記で、いわゆるひとつの『ホームページ』という言葉の定義議論について、

ホームページ
自ら(勝手に)『ホームページ』と名乗っている画面のこと。

などと、いーかげんなことを書いたけれども、これについて、一度回真面目に書くことにしませう。


まず最初に、ちょっと脱線。

『ホームページ』や『インターネット』『WWW』などのこの手の言葉の定義について、ある「回答」が欲しい人(何らかの権威に定義してもらいたい人)は、今なら、「リーダーズ+プラス」を買ってくるといいっす。どれを見ても、まぁ、普通は文句のつけようのない、実に簡潔で素晴らしい定義が書かれているから。

実際、この「リーダーズ+プラス」のCD-ROM版(私が持ってるのはEPWING版。ひょっとしたら電子ブック版でも一緒かも?)用に追加されたらしいコンピュータ/インターネット関連の用語は、かなり感動的に素晴らしいっす(これ、誰が書いたんだろう?)。

または、TimBLの御託宣が欲しいなら、それでも良いし。

でもね。でも、思うにこの手の言葉の定義は、「回答」を見る(知る)もんじゃなくって、自分で考えていくものだと思う。だってほんとに昨日今日できたものだし、日に日に変わっていくもの、しかもその変化に自分が参加し得るもの、なんだから。

という訳で考えてみるです。


先の日記で引用した、古瀬氏の、

ホームページ
home page
WWWで提供される情報画面のこと。最初の1画面だけをホームページというのだという説と、HTMLで表現されたすべての画面がホームページなのである、という説とがある。ハイパーリンクによってページのさまざまな箇所同士が結ばれるというWWWの特長から、私は後者の説を支持する。

という定義に対して、「意味不明」「ひどいですね」などとMLやNetNews上で発言している人々もいたが、私は、上の定義をズレていると思う人は実はズレている、と考える。

仮にここで『ホームページ』を、

ホームページ
a) ブラウザの開始時に表示されるページのこと
b) ある組織・機関・個人などを代表する(入口となる)ページのこと

と一般的に定義してみよう。

例えばa)の定義の場合、この『ホームページ』は、誰でもいつでも、自分の好きなように、どこへでも定義できるものである。

またb)の定義においても、実はWWW的な構造においては「代表する」という概念自体が非常にあやふやなものである。例えば(多少意図的だとは思うが)、

<http://www.brl.ntt.jp/~takada/>
は「高田敏弘の『ホームページ』」であり
<http://www.st.rim.or.jp/~takadat/>
も「高田敏弘の『ホームページ』」であり
<http://www.st.rim.or.jp/~takadat/id/>
は「高田敏弘の日記の『ホームページ』」であり
<http://www.st.rim.or.jp/~takadat/id/19960926.html>
は「高田敏弘の1996年9月26日の日記の『ホームページ』」である

という言い方を、誤りであると決めつけることができるだろうか?

上のような言い方が誤りであろうとなかろうと、現実問題として、ページを作る側/リンクを張る側が、

NTTのホームページ

とすることも、

NTTのホームページ

とすることも可能なのだ。

つまり、すべてのページが平坦な空間上に存在し、それらがリンクによって結ばれるという構造上、すべてのページが何らかの『ホームページ』に*成り得る*ことだけは確かである。

結局のところ、『ホームページ』という言葉や概念それ自体が、分散自律環境やハイパーテキストというものに似つかわしくないものではないのか、というのが私の結論である。

<もう一度脱線>
そう、論理的には、すべてのページは平坦な空間上に存在するのだと思う。よくある「URLは短い方が恰好いい」とかいうのは、DNSとかディレクトリ構造といった『過去の遺物』の概念に囚われた考え方なのでは(勿論、インプリメンテーション的には、それらは依然として極めて重要なのだけれども)。だいたい、URLを手で打ち込むこと自体、『あってはならないこと』だよな。
</もう一度脱線>


という訳で、最初にいーかげんとか書いたけど、実はあの定義の中には、

インターネット/WWW的な世界において、「ホームページ」とか「代表する」とか「デフォールトの」とかゆー言葉がいかに無意味か

という警句がこめられていたのさん。

というのは真っ赤な嘘か、はたまた真実なのか、それは謎です、ちゅうか。:-b


# なんか今日はblockquoteが多いな。:-)

ハードウェアとソフトウェアの進歩

最近続けて日記を書いてるのだけれども、とある事情によりrimnetの方のサーバに載せられません、きしょうめ。金曜日には何とかなるはずだけども、ほんとに何とかなるのかな?

さて、最近、DHUのFreeBSD 2.1.5R (MS-Windows95とのdual boot)にfvwm95を載せて遊んでたりするんだけど、これやってると、マジで今どっちにいるのか訳分かんなくなりますね。

にしても、やっぱUNIXは楽しいなぁ。

楽しいといっても、「これでいつでもどこでもコーディングできるぜい!」とか言ってる割には日がな一日.Xresourcesや.fvwm2rc95いぢって遊んでたりして、98%くらい無意味なんだけど。:-)

でも、やっぱUNIXは楽しいなぁ。

でも実は、こーして使っていれば使っているほど、何つーか、いわゆるX Window System (環境)の古さとゆーか寂しさをひしひしと感じてしまいます。いわゆる世間一般のUNIX/Xパワーユーザ達が『Windows95+TeraTerm+バックエンドのUNIXマシン』という環境にゴロゴロと転んでいく気持ちが良く分かる、ちゅうか。

確かにやはり、現時点での理想の環境を考えてみると、机上には、

  • 速いx86マシン
    • 実際は今やCPUなんぞは何でもいいんだよな。単なる好みだと、PDP-11系かR3000系だけど。:-)
  • Windows95
    • 日本語版が出ればNT4.0か?
  • 超高級ディスプレイ
    • でも私は、計算機のモニタ用途の場合は、トリニトロンはキライなの。最近の、他所の*トロンものはどうなのだろうか?
  • 好きなキーボード
    • あ、unnaturalなキーボードの話、まだ書いてなかったな(ネタネタ :-)。
  • 好きなマウス
    • とりあえず私の使い方(ウィンドウ操作が殆どで、1ドット単位で絵や図を書くことは稀)の場合は、絶対、LogitechのMouseMan Cordless. 一度使ってみるとマウスの尻尾がいかに邪魔か分かるっす。

で、ほとんどの作業はそれでこなして、んで、裏には、

  • UNIXマシン
    • これには何が良いんだろう? 何でも良いんだろうけど、SUNでSUNOS 4.1.xを使うのだけは、今や間違いだと思うぞ。

っつーのが絶対に正しいよな、現時点では(でも一寸先は闇 :-)。

ノートの場合はなぁ。dual bootの95とFreeBSDはネットワークで繋がんないからなぁ(当たり前)。あ、ノートの中に計算機が2セット入ってて、それぞれで95とFreeBSDが動いてればいいのか。って、そりゃ無理だから、となると、WinシミュレータとかBOW 1.5とかの路線かなぁ。それもイマイチだなぁ。


とクダらないことをウダウダと書いてますが…

にしても思うことは、計算機の、というか、ハードウェアとソフトウェアの進歩だね。

一番最初にSUN (1.5だったなぁ)でSunView (で良かったっけか? 名前)を使ったとき、「UNIXとウィンドウシステムって、なんて相性悪いんだろう」とか思ったもんだよな。あれでプログラム書いてると、「こんな理不尽(?)なことがあっていいのか〜」とか思ったけど。

そんな頃、しばし経って現れたX Window Systemの発想っちゅーのは、まぁ、分からんではないけど、なんか、理想主義的過ぎ、っちゅうか、机上の空論、っぽく感じられた、というのは極めて個人的感想だったけど…

それが今や、こんなノートごときでもXがサクサク動くんだからなぁ。偉大だなぁ。

これは勿論ハードウェアの驚異的進歩があってこそなのは確かだけども、実はそれにも負けず劣らずソフトウェアも進歩してるはずなんだよな。設計法とかアルゴリズムとか言語とかライブラリとか環境とか。

でもなんか、ソフトウェアの進歩って、見えるようで見えないとゆーか、目立つようで目立たないとゆーか、なんかあましムクワレていないような気がするのは、ソフト屋のヒガミでしょーか、とか。

あ〜、なんか、結論がねーな、この話。:-)

という訳で、今作った、今日の結論。

近年のハードウェアとソフトウェアの驚異的進歩により、今や、Microsoft社でもWindows95のごとき素晴らしい環境を作成することが可能になったのである。

ちゅうか(上の文の解釈は各自にお任せします :-)。

人体の神秘

この連休は、こんなときぁ寝てるに限る、ということでひたすら寝てたら流石に腰が痛くなりました。

という無茶苦茶強引なフリ :-) のもと、「腰」の話です。

腰は腰だけで成り立っているわけではなくて、当然両足と腹との連携プレーで成立している。

ということを実感したのが、過去唯一「整体」なるものに試しに行ってみたときでした。

私はちょっと猫背とゆーか腰が前傾してるとゆーか、いわゆるひとつの「姿勢が悪い」とゆー奴なのですが、その整体に行ったとき、お医者さん(整体士?)の人に、バキバキッ・メキメキッ、でわなくて、グリグリ・ゴリゴリとされた結果、これが実に見事に正しい姿勢になったのでした。

それでメデタシ・メデタシかとゆーとこれがなんとそーでわなくて、整体の結果矯正されるのは、骨というか関節というか、要は、背骨と骨盤の位置関係だけなのですね。

で、その新たな位置関係に筋肉が追従しないのです、これが。

つまり、

  • (矯正の結果得られた)骨的に『正しい』姿勢でいると、背筋(と腹筋)が筋肉疲労でしょうがない
  • 筋肉的に『楽な』姿勢でいると、骨がきちんと収まってないような何とも言えない不快感があってしょうがない

ということで、ありゃもう、ほんとに辛かった。

で、結局どーなったかというと、筋肉を鍛え直す間もなくどっちつかずでいる内に、骨の方が元の位置に戻ってしまったとさ、まる、ちゅうか。

ともかくあれは、人体の神秘を感じた2週間(くらいだったかな?)でした。


P.S.
日記のネタ、というのは、とっておくと、印象が薄れてただの水になってしまうのもあれば、熟成が進み過ぎて酢になってしまうのもあり、なんか不思議なもんですなぁ… という訳で今日のネタは、ちょっと水ぎみ。:-)


Protests or Pranks? — Diao Yu Islands E-mail –

日記界でも、近藤さん[9/17][9/18]のりくんが書いている尖閣諸島抗議メールですが、今日また、新手が届きました。3番目の奴です。ヘッダの日付を見る限り、送信されたのはより以前だけど余りのデカさに配送されるまでに時間が掛かった、というのが正しそうですが。ともあれ…


I’ve have received the following E-mails during last week.
I have no comment on this topics but have some questions to you.
Why did you fake your E-mail addresses?
You should be ashamed to say "Diaoyu Island belongs to Chinese", shouldn’t you?
Do you want to protest against or play pranks on me?

  1. From: The Chinese <chinese@diaoyu.protection.hk> (15KB)
  2. From: The chinese <chinese@diaoyu.island.cn> (7KB)
  3. From: fuck-you@ms1.hinet.net (2306KB) ;Very huge! Be careful to click

(Note: Some "Received" headers and "To/Cc" fields are suppressed by me.)


ということで、のりくんも書いてるように、こうしておけば、ロボット君が勝手にこのファイルを持って行ってくれるんで、もし誰かが"Diaoyu Island"で検索をしたとき、この頁がその人の目に触れることも可能な訳ですね。偉大だなぁ。

まぁ、英語で書いた部分の他は別に何も言うことはないんですけどね。でも、「尖閣諸島」でも「北方領土」でも「南沙諸島」でも、日本でも中国でもロシアでもベトナムでもフィリピンでもインドネシアでもマレーシアでも、何でもいいんですけどね。この手の『固有の領土』という概念は何か嘘くさい、というのが私の正直な気持ちです。

例えば、

For thousand years, the Diao Yu Island have been a part of China.
(from <http://www.hkinternet.net/diaoyu/engindex.htm>)

とか言われても、"thousand years"ねえ…、で、そのばやい"China"って何? "元"や"清"も"China"のうちなのね? ふ〜ん、とか(てなことを言うと紛糾するのか)。

もし仮に日本に属すると主張するとしても、そこにおける「日本」というものは「琉球」以外のなにものでもないよな。え、北方領土? 先住民族は? とか。

こーゆーのを『問題を逸らす』というのでしょうか。しかし別に私にとっての「問題」は、最低、そこら辺くらいしかありません。

ということで、最後にもうひとつ『問題を逸らし』て、今日の日記を終えることにしましょう。


<日本国官憲の方々へ>

上のメールは全て、私の意図とは何ら関係なく、(恐らくは国外から)私のメールアドレスを含む多数の人へ送り付けられたものです。例えば3番目のようなメールに関して、

  1. このようなデータを送付されたこと
  2. 送付されたデータをディスクに置いていること
  3. 送付されたデータを削除しないこと
  4. 送付されたデータの再閲覧を可能にすること

等の行為は法に触れることなのでしょうか? もし仮に触れるとすれば、どの行為がどの法律にどのように触れるのでしょうか? ご教示頂ければ幸いです。


とかね。

「関西」と「アジア」

前注:私は東京生まれの東京育ちです。2年前に神奈川県に来るまではずっと東京都在住でした。

昨日、最後に書いた話ですが、これについてはまだ頭がまとまってないので、今日は小ネタで攻めます。:-)


東京の人間としてずっと不思議に思っていることの一つは、なぜ、関西の人々には『関西』という概念がないのだろうか? ということです。

私からみれば、どうみても彼/彼女らの頭にあるのは、「大阪」「京都」「神戸」「奈良」などといった個別の概念のみであり、「関西」という概念は存在しないとしか思えません。これは箱根の先の人間にとっては、謎です。

翻って自分を見てみて、そいじゃ、「関東」とか「首都圏」とかいった概念が本当にあるのか? と言われると若干不安にはなりますが、少なくとも、関西人(ほら、イヤな言葉でしょう :-)の「関西」概念の無さよりかは、マシなのではないかと思います。

んで、さらに翔んでみるに、実は、「アジア」という概念も実体のない幻想だったりするのでしょうか? まぁ、「アジア」というのは広過ぎますから、「東アジア」でも何でもいいのですが、結局、巷間言われるところの「アジア」というものは存在しないのでしょうか?

このように東京人が「関西」と「アジア」という概念を対比させること自体、結局、自分で"non-Japan-Asia"を肯定していることになるのでしょうか? とか。

存在し得ない概念を無理に作り出す必要もないのですが、例えば、今後、『サッカー・ワールドカップ・アジア予選』なるものでナショナリズムを高揚する過程で、「アジア」というものが生まれてくるのでしょうか。

# あ、この段落意味不明ですね。思いついたまま書いただけで、自分でも意味不明です。:-)

「英語化」でも「日本化」でも「国際化」でも「中華化」でも「アジア化」でも何でもイイですが、我々、というのはいかんですな、もとい、私はどこへ向かえば良いのでせうか?

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