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1995年05月07日からの日記

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2015年を振り返る

(今年を振り返る)

まさか2015年にもなって,POP3とIMAPの連携考えるとか,SSL/TSL無しで生POP生SMTP使うとか,POP3やSMTPのログ取って調べるとかするとは,さすがに想像だにしていなかった.この世の中なにがおきるか分からない.そしてそれらと同時発生した諸々.ある意味目撃できたのは良かったのだと思う.

私はもう見捨て…じゃない,見捨てられた立場なので,もはや皆の健闘を祈るしかありません.健逃でもいいけど.

同じく今年の話だけど,目撃したなかで最大に“感動”したのは,「メールを1通transferする毎に人間が最低5クリックしなければならないMTA(当て推量で言うと平均では8〜9クリック+1スクロール操作)」.しかも操作をミスると何も言わずにメールをロストする(エラーは一切返さない).

先端の追及とは別に,世の中,そういう“困窮者救済”も必要なんだろうな,とかしみじみ思ったり.(困窮者というか,制度と技術の奴隷かな)

実に感慨深い.うん.

年賀状

(いまさら遅いわ!と怒られるかもしれませんが :-)

誠に恐縮ですが,来年年始分より,SNS等(facebookやらtwitterやら未だ微妙にmixiやら)で現役で繋がっている方への賀状は,もう止めにしようと思いました.たいへん失礼いたします.

でもまあ,もういい加減ねぇ……

以前は「××とか無くなったら」と思うこともあったのですが,ここまでくると,たとえtwitterやらfacebookやらが消えて無くなろうとも,その機能を上書きする何かが新しく出てくるのは不可避だろうし.

という訳で,いろいろ巻き取っていきたいこの頃です.よろしくお願いいたします.

P.S.
というのをfacebookとtwitter(と自動転送されるmixi)に書いた.
これを書いたときの「いまさら遅い」は,12月13日だったのでもう年賀状書いてしまったわ!というお叱りを意図してたんだけど,開けてみると,2015年にもなって漸くか,という意味での「いまさら」だと読んだ人が多かったようだ.そうりゃそうかもな.日本語むつかしい.:-)

TCPポート 21, 554, 7070

Time Capsule (AirMac ?)の内側からnmapポートスキャンするとポート21, 554, 7070で偽陽性(open)判定になるという話.有名な話なのこれ? 2時間盗られた orz.

it appears that Time Capsule was trying to “help” the situation by proxying certain protocols. The issue is that it doesn’t even check with the server on some of the protocols to see if a connection can actually be obtained, it just makes it appear as though one has been granted and passes along follow-up requests.
……
So, if you’re seeing some unexpected results of ports 21, 554, and 7070 being open on a remote server, I hope you find this blog post so you can quickly check if it’s a piece of Apple networking hardware that’s causing the issue.

Are ports 21, 554, and 7070 open or closed? The answer is yes. – nephtali blog

RIDEは偉いど (© ebijun, 1990か91か92くらい)

にしてもRIDE良かった.

今年でNowhereから25年らしいっすよ.四半世紀.なんだそりゃまったく.

コアそうな人達はやっぱり赤黄Nowhereの曲で盛り上がってたけど,自分はGoing Blank Againが好きなんだなぁと聴きながらしみじみ思ってた.そこからもう一歩進んでしまうと壊れてしまうギリギリまで矛盾とか不可能とかを追い求めた結果.そんな脆く危うく,そして輝いている感じとか.(実際その先で壊れたし)

なんか,途切れることなくキャリアを積み重ねてきた的大御所感すら漂ってたけど,たぶんそれは違う.っつーかそんな筈はない,気の迷いw

終わったあとtwitter検索眺めてたら「明後日も楽しみ」とかあって,なにそれ?と思ったら,香港まで観に行く人達だった.コアなファン達はいずこも偉大である.

さらにさらにYouTubeでPV観たりすると,ああこの青年があんなオッサンに,という感慨もひとしおであり,なぜ人は老いるのだろう,とかまで思考がいってしまい収拾がつかないw

何の根拠もないが,これを経由しないとOasis(の音楽)は生まれなかったんじゃないかと思った.

別に何一つ暴れてないんだけど何故か肉体疲労が.強烈な空気の振動はそれだけで体力を奪うらしい.すばらしい.

結論.「RIDEは偉いど(© ebijun, 1990か91か92くらいw,@渋谷ON AIRだったような気がしてきたけど嘘かもしんない)」

P.S.
という思いと同時に,ある瞬間思ったのは,今ここで特段生命の危機は感じないなあ,ということ.今,欧米のvenueであれば恐らく誰しもが頭によぎぎるであろうことを考えたが,実感は持てなかった.そのときの感情は,幸せとも,悲しみとも,後ろめたさとも,感謝とも,罪深さとも,何ともいえない,不思議な感情だった.

無能ではなく御用

江渡さんのスライド

2011年3月11日、東日本大震災
  科学技術の敗北。ソーシャルメディアは大混乱
  科学技術が起こした事故→科学を否定する動きへ

と書いてあった.

当時,私も同じことを思っていた.たぶん皆思ってたんだろう.

原発事故に関してだけではなく,地震・津波の被害における土木工学系にも何らかの「敗北」があると思った.(科学技術の側から見て)他の分野の人々の多くが無力感を感じているようにみえた.

これで,これまで連綿と培われてきた日本人の科学技術に関する信頼は地に落ちるんだろうな,と思った.

ところがその後現れたのは「御用学者」という言葉だった.

「御用学者」という言葉が意味するのは,態度や精神に対する疑義であって,能力に対する批判ではない.誤った結論を導いた力量の無さを問うのではなく,金や権力に転んで嘘を言うお前らは汚いという批判.

当時その様子をとてもとても不思議な気持ちで眺めていた

「無能」だと批判するのではなく「御用」だと言い募る人々.

それらの人々は,結局のところ,そう安々と「科学技術」への信頼を捨てることができなかったのだろうか? あるいは,何が正しく何が間違いなのか/正しい答を導き出せるのかどうかも分からない状態では能力ではなく態度を批判するしかないのだろうか? それとも能力を問うより汚い奴だと言う方が「より痛烈な」批判だと考えているのだろうか?(でも科学技術者自身は能力を問われた方が本当は堪えるはずである) 何なんだろう?

そんなことを当時ぼんやりと考えていた.いまだに自分のなかで結論はでていない.

糖質制限と腸内細菌叢と機械学習

去年の夏くらいから「糖質制限(なんちゃって)」をしている.

超なんちゃってなので甘いものも食べるけど.セブン-イレブンのみたらし団子おいしいですmgmg.あとpinoのアーモンドだけを売らない森永乳業はやっぱり許し難いよね(こんなことして煽ってるのに普通に売らないとはどういう了見だw),とか.

痩せたいとかいうモチベーションは特になく,始めたきっかけは単なる興味(当時,糖質制限実践者の原田氏が近くにいたりした).もともと食にあんまし執着がないというか,旅行とかで成り行きで1日3食摂ると必ず体調悪くなるし.

まあそれで始めてから1年以上続いているんだけど,その理由は,やっぱり体調が良い(明らかに身体が軽い)こと.そしてそれが "hacking" としてとても興味深いこと.

糖質制限生活のhacking的側面は2つある.ひとつは,「今この状況で何を食べる?」という,ライフハックというか,制約条件下での問題解決的な面白み.そしてもうひとつは,自分自身の肉体への操作と観察という意味でのハッキング.

肉体や体調の変化は,本家書籍あるいは巷間で言われているとおりで,意外な結果はほとんどなかった.

それより始めるときに興味があったのは,こんなことだった.

  • 炭水化物を採らないでいると代謝の機能が衰える(なまる)ということはないんだろうか? もし「なまってしまった」場合,再び炭水化物を採るようになるとそれは元に戻るんだろうか?
  • 食べるものが変われば腸内細菌叢の構成も変わるような気がするんだけど,どうなんだろう? もし変わったとしたら何がどうなって,これも食生活を戻せば元に戻るんだろうか?

どちらも何か具体的に調べたわけじゃないので答はない.でも,たとえば今年の人間ドッグで「75g経口ブドウ糖負荷試験」をやったけど結果は全く正常であり,グルコースの代謝能力はまったく衰えていないようだ(まあやってるのはなんちゃってだし,その時点では1年も経ってなかったけど).腸内細菌叢については全く分からないけど,たとえば便の様子が変わったとかそういうことも感じない.ただ,ご飯(白米)や麺類をたまーに多く食べてしまうとその後「ずっしり」と全身が重く感じられるのは確かなので,何かしらの「処理機能」が低下しているのではないかという気はする.

なーんてことをいつか日記に書こうと思っていたのだ.でも,オチというかヒネリがないなー,とも.

————

で,さっきtwitterみてたら,こんな話が!

いやこれは面白い.(と同時にこれ入れたらあの話が……と思ったのは内緒だw).

Cellの論文 "Personalized Nutrition by Prediction of Glycemic Responses" らしいですが,要するに(←私はド素人ですよもちろん,念為),

  • 何を食べたらどれくらい血糖値が上がるか,というのは人による差がとても大きい(食品のGI値が何とか的な話は怪しいってこと?)
  • で,血液(blood parameters),食習慣(dietary habits),人体測定(anthropometrics),身体活動(physical activity),腸内細菌叢(gut microbiota, microbiome)のデータ(800人/46898食?)を使って機械学習させた結果,何を食べたら血糖値がどう変化するか予測できるようになったよ

という話らしい(間違いがあったら申し訳ありません).

ここで機械学習! そうくるか.著者は計算機科学系(Computational and Systems Biology)の人達と医学系(Microbiota)の人達のチームのようです.

という訳で,自分の心にあった腸内細菌叢の話と予想もしなかった機械学習がきて,興奮のあまり論文自体も読まず(←駄目だろ)とりあえずこれ書きました.読む努力はこれからします!(ごめんなさい)

P.S.
注:この論文と「糖質制限」とは何の関係もありません.私の心の中で勝手に繋がっただけです.誤解無きよう,お願い致します(_o_)

ResDevOps

読んだ記事3つ.

1つめの記事後半,まったくもってもっともな話で,そこを目指すのであれば研究所が研究してたって何の意味もなく,研究と開発と運用を連携/一体化させた,DevOpsならぬ,"ResDevOps"的境地に到達する必要がある.

がそれは,2つめにあるようDevOpsですら組織・企業文化の根幹を変える必要がある通常全く儘ならぬ話であり,況んや"ResDevOps"をや.

たぶん本業がITやICTや情報に近い既存企業であればあるほど無理ゲーであり,逆に3つめのように,ある程度距離があるような業種の方が,従来の研究所モデル的に上手くいく可能性が高いのかも.
(とか言うのは舐めすぎでトヨタはもっと大きな野望を秘めてるのだろうな)

空き地

NHK|ニッポン戦後サブカルチャー史Ⅱ —第6回『更新するストリート・カルチャー』

観た.

結局のところは「フロンティア(空き地)渇望論」になるのかな.

もちろん「隙間と思って入ってみたら何て広大な!」という話への憧れは半端無い.そして実際に95年に発見した(ここすっげえ広いじゃん!ということがそのとき分かった)空き地は,それはそれは素敵なところだったさ.

でも,よくよく考えてみると……

「新大陸」と呼ばれたフロンティアは,実は空き地なんかじゃなく,ネイティブアメリカン達の住処だった.

我々が90年代に見つけたと思ったあそこも,本当は空き地なんかじゃなく,いろんな「リアル」を気付かずに踏み潰していただけなのかもしれない.だから,なのか(しっぺ返し),あるいは単に色んな山程の人が入ってきて窮々になったからか分からないけど,そこには今,息苦しさが満ちている.

新しい隙間.

あるのかな.いや,あるにはあるだろう.

あんな素敵な宝物,人生で二度も見つけられるかよ,という煤けた思いを頑張って退かしながら.

Walk out to winter, swear I’ll be there
Chance is buried just below the blinding snow

(Aztec Camera – Walk Out To Winter)

(Free) riding on social trust

CityLab (from The Atlantic)の記事.「なぜ日本の子どもたちはこれほどまで自立してるのか?」って感じでしょうか.「なぜ」かは一番最初に分かるようようになってiいて(副題に書いてある),

In Japan, small children take the subway and run errands alone, no parent in sight. The reason why has more to do with social trust than self-reliance.

だそうです.

そう見えるのかー,という点で面白い.

動画に出てくる「はじめてのおつかい」はカメラクルーを画角にいれない昔のバージョンですね(参考:「20年前と今の『はじめてのおつかい』の変化 – 活字中毒R。」).この意味では日本も変化しているということなのだが(脇道).

欧米人がなぜ,と思って掘り下げてみたら自分達にはない掃除当番と給食当番に行き当たった,っていうのが日本人的には不思議にも思える.掃除当番はよくわかんないけど,給食当番は,自分が食べるものの処理を皆でやるというのは社会的信頼のひとつの究極なので,ちょっとは関係あるのかな?(その信頼を悪用されると「カレー事件」になる訳である)

...

(女子)中高生とかが相手に聞こえることを前提に「キモっ」とか言うのは,反撃される(殴られるとか刺されるとか撃たれるとか)リスクがないと分かっているからだ.なので,街中や電車でキモいとか言われたオッサンは,怒らず狼狽えず,安全な公共空間を作り・保っていることを誇りに思えばよいw (でも,そういうのを,それが当り前だと思って無駄に消費してると,もしそれが失われたら取り戻すのは果てしなく大変,というのを伝える別ルートはあった方がいいのかな,とも思うけど.)

その一方で,この記事でも名指しで書かれているが.この安全な公共空間/信頼関係と電車での痴漢問題が永遠に同居しているのは,いったいなぜなんだろう? 謎だ.信頼へのフリーライドなのか,それともひょっとして何かそこに不可分の構造があったりして.

...

なおリンク先記事は,この文章経由で知りました(さらに一つリンク遡ったけど).

一部抜粋訳があります.

a ray of hope

達郎さん繋がりで,もうひとつ以前から書きたかったことを.

山下達郎の「希望という名の光」という曲がある.2010年に映画『てぃだかんかん〜海とサンゴと小さな奇跡〜』の主題歌として発表され,その後2011年の東日本大震災を境に鎮魂と希望の歌という新しい意味付けが加えられるようになった.曲がアーティストの手を離れて一人歩きする良い例だが,山下達郎の場合は一人歩きの女王(笑)であるところの「クリスマス・イブ」があるので,それに較べれば大して方向は違わぬ歩みなのかもしれない.

3.11後にそう受け取ろうとする人々の心情はわかるが,個人的にはこれがどうもしっくりこない.歌詞を読んでも映画(「さんご畑」は一度行ってみたいんだけど興味を持ってから沖縄に行く機会がなく残念)を観ても,感じるのはそういった大きな物語ではない.これは一人の人間の孤高(とその後ろにいる人々の視線)を唄う歌だ.(「うただ」を変換したら「宇多田」になった.伏線w)

そう,この曲を聞くとき私の心に浮かぶのは,宇多田ヒカル.より正確には,雨宮まみさんが書いたこの文章に出てくる,宇多田ヒカルという人間の存在について.

ライブの中継を観ているとき、私はこのすさまじい才能が、たった27歳の、生きている人間の若い女の子にのっかっているのだということにふるえた。宇多田はこの才能を、自在に使いこなし遊びこなして楽しんでいるように見えるけど、こんな巨大な才能がたった一人の、何かあればケガもするような脆い「人間」の形の上にあるって、おそろしいことだ。普通に「電気代とかも知らない痛い大人になりたくない」って言っちゃうような、そういう女の子の上にある、そのことはもちろん宇多田ヒカルの表現する歌と不可分なことだけど、こんなにも大勢の人間の心を否応なくゆさぶる力を持つ才能が、永遠ではないこと、感情があり、生活があり、当たり前に続いていくものではないこと、それを考えると、かけがえのなさに今さら気づかされてたまらなかった。この一瞬にしかこの一瞬は存在しないっていう、当然のことを私はあのとき初めて強く意識した。この怪物のような才能は、怪物ではなく人間なんだと気づいて、恐怖と貴重さに慄然とした。

2010-12-25 – 雨宮まみの「弟よ!」

……本当ならここで上を受けて自分の言葉でパラフレーズするのが普通の文章の構成だけど,この雨宮さんの才能溢れた文章に相対して何かを書くことはとてもできない.あえて付け加えるならば,私の中でこの延長線上には岡崎京子がいる.

「希望という名の光」を聴くたびに私は,この雨宮さんの文章を思い出す.そして,宇多田ヒカル云々を超えて,あらゆるartifactsはどこかにいる(いた)人間がつくったものであることを,もしそこに才能やhard workを見いだすのであればそれは「『人間』の形の上」に存在することを,その人間は脆く・いつ失われても不思議ではない・ただの人間であることの貴重さを思い出し,恐怖する.

んなもん,なんかもっと頑丈なものに入れらんないのかよ,とか身勝手に思ったりもする訳だが(←ほんと酷い言い草),その「頑丈なもの」って何だろう?と考えてみると,ひょっとしたらそれは,社会やコミュニティや,あるいは個々の人間から人間へ手渡される「バトン」なのかもしれない.だとすると3.11の後,一人の人間という生物の脆さから"a ray of hope"を掬い上げてみたらそこに共同体の希望を見い出さざるを得なかった,というのは,ぐるっと回って正解なのかもしれないな,などと考えを改めてみたり,ね.

幸か不幸か,現代には,才能ではなくその果実を入れる「頑丈な容れ物」として「メディア」というものがある.それがどれくらい頑丈であるべきで,どれくらい自由であるべきか,というのは,また別のお話.

————

Facebookの「ノート」の新装開店記念に試しにノートで書いてみた話(ネタ自体はそれこそ5年前から頭にあった).その後ノートは使っていない……(笑)

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