1月経てばblog祭りも夢のまた夢。やってることは、ワイドショーと変わらんな。ま、私にとっては、この騒動をきっかけに、東京大学大学院新領域創成科学研究科環境学専攻人間環境学大講座メディア環境学研究室(自分でやっといて何だが、長過ぎ)の「月尾嘉男教授/濱野保樹助教授/武邑光裕助教授」とゆーのを知ったのが、最大の収穫だな。東大以外では決して出来ない技だ。すばらしい… 感動的ですらある。うむ。

そういえば、「日本ウェブログ学会」、か。EmacsでHTMLを編集している私も、こっちなら入れて貰えるのだろうか? :-)


ま、それはそれとして… それがblogの特徴付けとなるのか否かは結局分かってないのだが、コメント付けの機能についての一コメント。

「コメント付け」や「TrackBack」を手段としたコミュニケーションの発生と、そこから生まれるacquaintanceship (もしくは"知")の創発。それが重要かもと考えることについては何ら異論はないが、その実現手法として、いまさら「相手の(人の)スペースに書き込む」というのは無いんじゃないか、と思うのだ。せっかく、TrackBackまで到達したというのに。もったいない。

「草創期」ネタを持ち出す訳ではないが(持ち出してるか :-)、ある意味似たような「双方向」話7年前にした。したのは事実だが、そこで自分が何と答えたかはもう残っていない(このページの一番下にここへのリンクがある)。どうせ茶々しか言ってないとは思うが、何と言ったのか気にはなる(ついでに書いとくと、ここに付けたコメントが何だったかも気になる)。一方、自分が自分の所に書いたものは、当然、自分が残そうと思っているが故に残っているのだ。

完全な分散(・replication)システムであるならば、本来、そのデータがどこに置かれるか本質ではない。というか、ユーザから見たらそういう概念が恐らく無い。しかし今のWebのような似非システムでは、どこにデータが収められるかに意味を持つ。消されてしまっては、存在しなくなるのだ。創発したかもしれない知も知己も。

コメントを相手のスペースに書き込むと同時に、そのコピーを自分のところにも置くようなシステムは、多分すぐ書ける。あるのかな? 調べてみないと分からん。で、あるとして、その手のreplication情報を(メタ)データとして取り扱う枠組は… えーと、何かあったっけ? (そいえばDRPってどうなったんだ?) なんか、"?"ばっかりだな。:-)

という訳で、似非なシステムが分からず・信じられない私は、今日もシコシコとEmacsでHTMLを書いて、サーバにftpするのだ。それ故に(嘘)。ま、サーバやhost(domain)nameが自分のものではないので、URIの保存性は保証されないんだけど(もう諦めようかなぁ…)。

他所にコメント付けしてる人々は、

  1. 相手先を信用している
  2. 自分で全部コピーを取っている
  3. 消えてもいいことしか書いてない
  4. 消えたらそれが運命だと思っている

のだろうか。消えてもいい、どうでもいいような断片が意味の一環と成り得ることに意味があるのではなかったのか? 一体どのような折り合いをつけているのか、一度誰かに聞いてみたいものだ。

そういった観点からは、やはり、「次々々々世代Freenet」的なモノはもっと真面目に考えねばならない。違法物の楽園としてではなく。nyってる場合でもなく。密かな企みを持ってる人は世界にどれくらい居るのだろうか? 興味深いことだ。

(ここではデータの置かれる場所と匿名性に関する議論も置いておく。どうせそれも、今のWebでは似非モノだし。)


(本人に気付かれることは無いと思うが)この文章は決してなひさんを批難する目的で書いた訳ではないことを、ここで表明しておこう。恐らくは、面倒臭い半分、他人の投稿を再編集して掲示して良いかという躊躇半分、といったところか。で、この「躊躇」が生じ得ること自体が、システムの不完全性を意味するのではないか、と思う。