なんか先週の金土は、厚木近辺の道路がどこもグチャ混みで、一体、ありゃ、何だったんだろー? やっぱし、半期末の週末だったりして、どこも忙しいのかなぁ、とか。
ところで、『半期末』なんつー概念は、個人的には、普段もあまり関係なかったりするのだけれども、世の中には、そーゆーのと共に生きてる人も沢山いるのねん、きっと。つーこって、これも、あたため過ぎて発酵してしまったっぽいネタです。何と、本日記初のインライン・イメージ付!、な、「謎の意味」です。 :-)
という訳で、世の中には階層構造というものが存在し、その一構成員となることにより存在している人々が沢山います。例えば、以下の図1において、D0を私、A0をある事項における最終決定者(評価者)とします。
図1:階層構造
このような状況において、D0が何らかの決定を仰ぎたい、とする場合、まず、カクカクシカジカの決定を仰いで良いか否かについて、C0の決定を仰ぎます。
もし、C0の判断が「可」となった場合、次は、カクカクシカジカの決定を仰いで良いか否かについて、B0の決定を仰ぎます。
そして更にもし、B0の判断が「可」となった場合、ようやく、カクカクシカジカの決定をA0に仰ぐ、ということになります。
さて、この過程において、C0やB0は何をするのでしょうか?
勿論、その「カクカクシカジカ」が自分以下の階層にとって正しいか否かを判断することが第一の作業となるでしょう。また、その「カクカクシカジカ」の中に自分の意見を挿入する、ということも欠かせない作業となります。
上記2点については、それは至極もっともな作業ですが、実はこのもっともな作業以上にウェイトが置かれるのが、「自分より1階層上の判断をシミュレートする」、という作業です。すなわち、例えばC0はB0の判断をシミュレートし、なるべく良い結果が出るように「カクカクシカジカ」の内容を改変する(あるいはB0に余計な手間を取らせないように/不快感を与えないように「カクカクシカジカ」の提出そのものを取り止める)、という作業です。そして同様の作業を、B0はA0を想定して行なう、という次第です。
基本的にこれらの過程において、各要素は勿論何ら悪意はなく、極めて真面目に、そして(個々の作業自体は)比較的効率良く、これらの作業を遂行します。
果たしてここに、何の問題があるというのでしょうか?
更に話は、これだけでは終わりません。
いわゆる日本的社会においては、「決定」というものは決定権者のみにおいて為されるものではありません。例えば、図1において、A0が決定権者である場合、その「決定」というものは、たいてい、A0を長とし、B0, B1, B2, ...というメンバーから構成される会議によって為されます。
そしてそれは、B0の決定段階に置いても同様であり、C0, C1, C2, ...から構成される会議が存在します。
なぜ、(例えば)D0から上がってきた事項に対してB1やB2や、C1やC2の意見が問われるのでしょうか? 恐らくそれは、客観的判断や階層構造のバランス(B-treeか、って、違うか :-)のためでしょう。
ここにおいても、基本的にこれらの方式は、悪意によって存在するものではなく、(恐らくは過去の)試行錯誤や真剣な議論の結果、これらの構造が構成されたのでしょう。
果たしてそこに、いったい、何の問題があるというのでしょうか?
いや、何も問題がないからこそこのような構造が維持されているのであり、その構造を破壊しようとすることこそが問題なのです。
な、問題なのですが、が、問題なのですね、まる。