「Windows95より鉛筆」とか言ってる連中をまともに相手にする必要があるかどうかというのはおいといて、言いたいことは言ってみることにしよう。せっかく言えるのだから。なんてね。
朝日新聞夕刊「経済気象台」1996年2月19日付第5面『新ホームレス考』より、
ところがシリコンバレーでは、インターネットのホームページを持っていない企業、組織を「ホームレス」と呼ぶのだそうである。あ〜、そ〜ですか。そりゃ、よ〜ござんした。
第一にあわてないでいただきたい。ホームページは情報の供給と需要の出合いの場であるから、情報の供給体制を整えるだけでは話は完結しない。ホームページを開設するのはそれほど困難ではないが、提供する情報に対する需要がほとんど無かったりしたら惨めなことになる。(中略)ホームページの開設は、広く提供する情報があり、それに対するかなりの需要が存在しなければ意味がない。例えば私の個人ページなんぞには、「広く提供する情報」などはないし、「それに対するかなりの需要」なんてものも存在する訳がない。ということで、この日記には「意味がない」「惨めなもの」であると。そりゃ、ごもっともでござんす。
上の私の反応の中で、あえて私がしているのは、「企業・組織」と「個人」を混同して反論(というほど大層なものではないが)している点だろう。でもまぁ、これは経済面のコラムであるし、おそらくここでは「個人」という立場はスコープ外なのだろう。
(「スコープ外なのだろう」と言っておきながらシツコイが :-)ひとつだけ言いたいのは、インターネット云々という文脈で、「組織としての立場やその発言というものをどう捕らえるのか?」「それに対する個人とその発言というものをどう捕らえるのか?」という点をすっ飛ばしてしまうのは、あまりに軽率ではないか、ということ。組織に所属しない個人であるとか、組織の中の個人、というものを軽視するのであれば、
第二に、よく観察していただきたい。(中略)ホームレスうんぬんに驚く必要はまったくないが、パソコンの普及に注目を怠ってはいけないということだろう。というこのコラムに対して、
ふ〜ん。無理しないで鉛筆でも削ってれば?と、朝日新聞全体をひとくくりにしたセリフを投げつけたい、今日この頃である。
さて、話を本筋に戻して、「ホームページにおいては(も)、需要のない情報を供給することに意味はないのか」という点。
これについては、私の考えは明らかに異なる。過去にも書いたことがあるので繰り返しはしないが、ひとことで言えば、WWW (あるいはその後継)は、需要のない情報を低コストで供給することが可能なメディアである、ということだ。
この考えが正しいのかどうかは、私には分からない。分からないので分からないままにしておいて次にいく。
次に問題となるのが、「低コスト」はあくまでも「低コスト」であって、コストがゼロである訳ではない、ということ。
ほんのわずかの(今までの意識で言えば無視できる範囲の)需要に対して、(たとえどんなに低コストであっても)コストをかける必要が企業にあるのか? という点。
実際、これもよく分からない。1円とか50銭の単位でコストを削っている企業に対して、そんなことが言えるのかどうか?
と、ここで再び話は「朝日新聞」に戻るのだが、私から見れば、ふだん企業の社会的責任などを声高に主張する人間が「需要のないことなどは、やっても惨めになるだけ」などという単純な理論を展開すべきではない、と思えるのだが、果たしてそれは正しいのだろうか?
ちなみに、ここまでウダウダと書き連ねておきながら、私の個人的結論は、それとはまったく関係なく、
惨めなことになって何が悪い。である。