これを読むと別の意味での彼我の差を感じざるを得ない.

最後に政治家を縛るものは何か? | 岡田憲治

米国公民権運動の場合.(ここには書かれていないがそもそも)その100年前に奴隷制を廃止し人種に依らない参政権を規定する憲法修正をした(これが国民の合意に基づくものであれば美しいのだが実際には戦争の結果).いったん私人による差別は合法化されるものの,公的機関による差別を認める州法への違憲判決が出て,その後に公民権法が制定される.一連の過程では憲法を頂点とした法に基づく手続きが尊重されている.デュー・プロセスの国である.

一方で日本の安保法制はどうかというと,政府見解による憲法解釈の変遷と個別法の制定(と違憲訴訟の門前払いの山?)だ.なんだそりゃ.気を取り直して,では憲法解釈とはどういうものかというと,自衛戦争と自衛行動は違います,自衛戦争のための戦力と自衛行動のための実力は違います,という話らしい.なんだそりゃ^2.いったいそれらのどこに憲法を尊ぶ規範意識があるのか.そして誰が悪いのか.……日本だ.

件の参考人の憲法学者の先生方に私が感じた印象も同根なのだろう.もしあの場で,そもそも自衛隊の存在自体が違憲です,とか,だいたい違憲状態の手続きで選ばれている可能性が高い貴方がた国会議員の正当性自体が疑わしいし,そんな貴方がたで構成されるこの国会・この審査会の正当性についてどうお考えなのか,とか言ってくれたのであれば諸手を挙げて信頼できる.そうではなく,所詮,安全かつ効果的なフレームを設定してその中でアピールをしているだけなんじゃないかと.

同じくHuffington Postにこんな記事が出ている.

【安保法案】集団的自衛権、憲法制定時からこんなに変わった

「立憲主義の危機」はいったいいつ始まったのだろう?

“なあなあ主義”は日本らしい.実は私は“なあなあ”で動いてるものは無理に変えないでもいいんじゃないか派でもある.正確には,“なあなあ”はいつか必ず破綻するが,それがいつかは事前には予測不可能(従って「今が立憲主義の危機!」と言っている人は占い師や予言者だと思ってる),“なあなあ”は破綻の(遥か)手前で修正するか,破局を迎えてから対処するか,どちらをとるかはリスク/コスト/ベネフィットで判断するしかない,派である.

この“なあなあ”を破綻の手前で修正する選択肢はいくつかある.自衛隊を無くし警察力/災害救援力という位置づけを明確にしたものに変更する.あるいは,(今回の改正案ではなく)2001年のテロ対策特措法成立時より前のどこかの状態が明確に合憲であるよう憲法を修正する.その後の政権交代を経ても,そのままの状態で置かれていたものなのだから,(日本共産党等を除いて)反対はあるまい.

……

最後にリンク先文章の本題だけど,最後の安全弁を政治家の規範に求めるというのは正しい姿なのかなあ? 最後の砦は人(の規範意識)であるべきというタイプと,最後の砦は仕組みであるべきというタイプと,人類は2つに別れるような気がしないでもない.それはまた別の話.

(なぜこんな長文になるんだ)