facebookの友達たちが面白い議論をしてるので(これとか,これとか),少し斜めから参戦.結論は無いよ(たぶん).

注:以下の文の対象となる集団を,我々は,日本人は,人は,等々‥‥ 何と称すればよいか,いま一つ確信が持てないので,そこは曖昧に「我々は」にしておこう.(最後まで書いたら,やっぱり「日本人は」かな,という結論になってしまった‥‥と戻って書いている)

我々は,物事をひとつひとつコツコツとこなすことを厭わないばかりか,それを尊いとさえ思う傾向がある.そしてもうひとつ,我々は時として理解より納得を優先する.

例えば何か事前検討・準備が必要な仕事があり,その場合や条件や選択肢が1から100まであったとしよう.上司が部下に仔細問題なきよう指示し,その報告を上司が聞く.もし部下が充分な抽象化をして論理的に検討した結果を報告したら,おそらく上司は「理屈はいいから1から100まで全部検討しろ」と言うだろう.上司はその抽象化と論理を理解できないのかもしれない.理解は出来ても腑に落ちないのかもしれない.(最低だがよくあるパタンは)「お前の言うことは分かった.だがそれでは上が納得しないだろう」という“NO”だ.

抽象化して考えることの利点は勿論ある.例えば1から100ではなく1から1億まで場合があるとき.そして,1から100に対して準備したがいざ本番で意に反して101や10000がやってきたとき.どちらも,しらみ潰しよりは抽象化で考えていた方が失敗しない可能性は高い(もちろん確実ではない).

しかし実際に選ばれるのは,ひとつひとつ丁寧に検討する仕事だ.前者は得てして「可能な限りのケースを検討しろ」となる.その結果,全てのケースを尽くせずそこで物事が止まるか,あるいは,1から274まで検討したところで時間切れとなり見切り発車となる(もしそれで失敗した場合は「仕方なかった,でもよくがんばった」だ).後者の光景も目にする.「インターネットという衝撃」や「津波と全交流電源喪失」という10000がやってきたあげくに手も足も出なくなる状況.

どちらもそうした挙句の失敗はあまり責められない傾向がある.逆に,「抽象化」と「論理」に間違いがあって失敗したときはどうなるだろうか? 本人はともかく「それにOKをだした上司」は相当に責められるような気がする(個人の感覚なので根拠はない).

おそらく社会の人々は,(偶数+奇数のような)例題的な単純な問題はさておき,実世界や実社会の問題を式や抽象化で表現することは不可能だと思っているのだろう(それはほぼ正しいと私も思う).だからそんな考え方には価値がないと.もちろんしらみ潰し方式もすべてを尽くすことは不可能なのだが,こちらは努力が目に見えてしまうところが,たちが悪い.

さてこれに反論するにはどうしたらよいのだろう? 以下これも根拠レスだが,恐らく欧米(特にヨーロッパ)では,リベラル・アーツの発祥から想像できるように,しらみ潰しの作業をするのは「奴隷」,論理や抽象化や体系で考えることができるのは「自由人(非奴隷)」という古代ギリシアから続く区別が厳然とあり,どちらが良いも悪いもへったくれもないのではないか.日本のような,そうした前提のないところで(本当にないかどうかはこれもよく知らない)論理や抽象化や体系の意義や力を,それを信用しない人に対して説得する方法は果たしてあるのだろうか?

長杉!w