五輪東京落選.

「石原老害」とか「税金返せ」とか言ってる分にはお気楽な話で相変わらず今日も平和な日本な訳だが,この情景の一部を我が身に照らして見ると暗澹たる気分になる.

いろんな人がいろんな言い方をしているのだが,比較的分かりやすい例として,これを引用.

で、東京は五輪招致活動を続けるのだろうか。: 見物人の論理

 財政、設備、運営技術、安全性といった面で、東京(あるいは日本の主要都市)に充分な開催能力があることは、おそらくIOC評議員の多くが理解していることだろう。だが、五輪開催地はそれだけで決まるものではない。北京で五輪が開催されたことも、単一競技の大会ではあるがサッカーのワールドカップが南アフリカ共和国で開催されることも、石原都知事が言うような面だけではない別の理由によって決まっているはずだ。
 それを広い意味でいえば「政治」である。長年政治家として生きてきた石原都知事がそれを理解していないというのは解せない。ついでに言うと、「南米で初の五輪を!」という単純で骨太の呼びかけが、どれほど理屈抜きで人の心を動かす力を持っているかについて、政治家より長く文学者として生きてきた石原慎太郎が理解していないらしいことも解せない。文学者というのは人の心を動かす専門家ではないのだろうか。

(以下,「と、都知事に対する嫌味はこのくらいにして、少しこの先のことを考えてみたい。」と続くように,引用部分の冷笑的表現は元記事の本質ではないことを注記しておきます.)

共同体に所属していれば半自動的に役割が与えられていたような時代はもう来ない.今日び人間生きていくためには,ほとんどの局面でセールスマン(NPC wordだな)たる必要がある.

日々の糧を得るには,自分の能力/技術/属性あるいは自分が創造/創作したモノ/コトを他人に売り込まなければならない.幸福な生活や生殖のためには,自らの人間的魅力やら性的魅力やら前文と同様の項目(やっぱお金よね,とか :)を,そして他者からの認知が人間にとって生きていく上で不可欠なのであれば,自らの人間性そのものを,セールスする必要がある.

そしてセールスマンとして勝つためには,みな,
・売り込む「商品」そのものの優秀性
の向上に励めばよいだけではなく,
・政治家としての能力
・文学者(物語を作る/人の心を動かす者)としての能力
に長けていなければならない.

いやそれは,当たり前のことで,皆,日々そうして暮らして居るんだけれども(論文通すのもファンド取るのもプロダクト売るのも商売やるのも彼氏・彼女作るのも就職・転職するのもポスト・ポジション得るのもみんなそう),改めてそうなんだと言われると,暗澹たる気分とまではいかずとも,まあ,正直しんどい,というのが偽らざる心境なのだ.

P.S.
みんながみんな,本当にしんどいと思うようになったら,そうしないで済むような「大きな物語」が復活するのかな?