悲しいことに転地療養は既に終わっているのであった。

帰ってきてみれば、TVで当たり前のように「ネオコン」などという単語が飛び交っている。で、その、「ネオコン」つーのはゼネコンやマリコンの親戚みたいなものですか? とか言ってる場合ではない。こんな単語、ちょっと前までは電波系単語扱いだったよーな気もしないでもないが、まぁ、日本のTVも空気を読む能力くらいには長けているのであろう。

# いい大人のくせに全く空気読めない奴、というのも居たしなぁ>木曜日の会(独り言だよ :-b)。

療養先では、懸案だった『暗号化』,『CODE』,『コモンズ』等含めて8冊ほど読んだが、その筋関係の本は何故か持って行かなかった(強いて言えば『民族とは何か』程度か)。
『CODE』・『コモンズ』は、やっぱ、「なげーよ。」としか言い様がないので、かなり斜め読みだけど。

で、斜め読みしたものについてこんなこと言っていいのかどうか分からんが、以下、感じたこと。

『コモンズ』でレッシグ氏は、所有権強化の動きが技術革新の妨げとなること、そしてそれは法理論的にも合衆国憲法(の精神)に反するという意味で間違っていることを示した。後者の議論について少なからず私が感じたのは、「合衆国憲法」あるいは「建国の精神」への過度な依拠であり、それらの無謬性への信仰である。

レッシグ氏は彼の地の法学者であり、アメリカ合衆国とはそもそもそういう国だ。それを悪いと言うつもりはない。しかし、いわゆる新保守主義が依拠するものの一つもまた、同じ「建国の精神」や「合衆国憲法」の無謬性への信仰だ。

レッシグと新保守主義のベクトルはまるで違うように見えるが、ある断面においては通底している。一方で「Creative Commons イイ!」と言い、もう一方で「ラムは悪人面」と言うのは勝手だが(間違っては無いし :-)、ある意味、同じ手の平の上で踊らされていることは自覚していなければならないだろう。

なんつーことを、憲法の1条1節も改正できない国の人間にゃあ言われたくないだろーな。レッシグ氏もネオコンも。