しかし何だ、この恐ろしいまでの総思考停止状態。ひでーもんだ。判断不能な状況に陥った場合でも、「非道い」「悲しい」「可哀想」といった感情ならば考えなしに出される(ことを許される)ので、こんなことになるのか?

拉致された人の家族は、どんな暴言を首相や政府に投げつけても良いだろう。たとえそれが道理に外れたことであっても、黙って堪えるのが統治者の徳というものだ。

質が悪いのはその尻馬に乗る連中。

マスコミは言わずもがなだ。最早言わずもがななので書かない。それに、みんな、もう、気づいているだろう。彼らにとっては9.11も『ガチンコ!』も等価だったことを充分見せてもらったし…

政治家連中もかなり見苦しい。過去の政権党という意味では共産党以外全滅(特に社民党社会党方面は2重3重の意味で罪が重い)、何言ってんだか、の世界だ。

小村寿太郎もこんなんだったんだろーか。

100年経っても大して変わっていないよーな気がするが。まあ、煽り屋が帝大博士からメディアタレントに替わるなど、権威の解体と民主化が進んだことは確かだ(笑)。およそ100年後の今回は、誰がこれを利用し、目的を達成するのだろうか?


P.S.

統治者の徳。上にそう書いたが、やっぱり、浮いて見える。

近頃は、たとえば日本とアメリカの比較であるとか、田中長野県知事的視点であるとかから、本来の統治者は国民であり、政府とはtaxpayerに対するサービス業たるべきであり、従って今のほげほげはけしからん云々、などという枠組で物事を考えるようになっていた。その枠組では、「黙って堪える」ことは徳などではなく、為政者の務めなのであろう。ところが突然そうした枠組からとっ外れた体制と対面すると、ひょっとしてそんな枠組を前提とし得る自分は幸せなの? などと考え… ふと我に返ると、"100人村で考えるとああ私って幸せなのね"状態の自分を発見し、愕然とする。

P.P.S.

それにしても朝日新聞、事ここに至り、すげー原稿を載せてるな(20日夕刊文化面・神谷不二慶應大名誉教授筆)。うかつに一部のみ引用すると、とんでもないことになりそうな文章だ。朝日も『国民新聞社』にはなりたくないとか(笑)。ま、朝日の「愛国主義」は戦後一貫してるみたいなんだけどね。

P.P.P.S.

敢えて固有名詞を排してみた。ここ数日、いろんなところでいろんなひとが、今までのような気兼なしに、全開で、■■■って書いてるんだろうなぁ。不思議なものだ。西原理恵子をして「ホンマにやべえ」と言わしめた3文字なのに :-)。そーいや、漫画といえば、『GO! GO! …』は、どこ行ったんだ? (こっちこそ、ホンマにやべえ? :-)