という訳で、"September 11" である。

1年前に "September 11" について何も書かなかった理由は、昨年末の日記に書いた通りだ。そこ書かれた気持は、今も、全くと言って良い程変わっていない。

ともあれ、あれから1年、いまだにあのときの映像を見るたびに頭の中に甦る、いや、ずっと胸のどこかに引っ掛かり続けている言葉が、表題の、

Low technology, High concept

という言葉だ。

誰が最初に言い、私はどこで最初にこの言葉を耳にした(目にした)のか全く覚えていないのだが、おそらくは、CNNかABCあたりで誰かが言っていたのだろう。今回のテロの特性を良く表した言葉だということになっている。

私は常々、

good concepts, simple technologies

を追求することこそが研究の美学だと考えていた。そして、

low-technology, "high-concept"

は唾棄すべき道だと。(ここでの high-concept とは、いわゆる引用符付きの、ハリウッド用語(?)の、逆説的な意味での、high-concept だ。)

もし今回のテロが「ローテク・ハイコンセプト」であるというならば、それが実際にもたらしたこの効果の絶大さは何なのだ? 敢えて言ってしまおう、この『美しさ』はいったい何だというのだ? 所詮我々はハイコンセプトに誤魔化されてしまう程度の代物なのか?

それが受け入れられない私は、今回の行為が実はローテク・ハイコンセプトではないことを示してみようと考えた。

曰く、ジェット旅客機やWTCビルこそハイテクの塊だ。曰く、単なる一兵卒とは異なり自爆攻撃を遂行できる兵は実は極めて大きなリソース(の消費)だ。曰く、実はアメリカが予想外にナイーブで打たれ弱かっただけだ。曰く、我々は事件の結果にではなくアメリカのナイーブさに驚いたのだ。曰く、単にビジュアルに負けただけだ。曰く、ビルが倒壊までしたのは単なるまぐれだ。

どれももっともらしいようで、もっともらしくなく、決定打に欠ける。結論は出ず、そしてハイコンセプトに昂揚する自分。

それを認めるのは悲しい。

一旦認めてしまうとただひたすら安易な道に落ちていってしまいそうな自分。それが悲しくもあり、恐怖でもある。

結果として、自分の中で戦うべきものが、何かひとつ、metaなレベルで増えたのではないかと思う、この1年である。


うーん、駄目だ。全然まとまらん。でも日付モノなので、無理矢理まとめる。

最後に蛇足ではあるが、NEWS23、視るに耐えん。とっとと終われ。