LaTeXを使っていて、良く言われる言葉があります。曰く、

Leslie Lamportに逆らってはいけない

要は、文書の構造のみをLaTeXで記述していき、それをLamportの好みの通り出力する分には非常に良いのですが、一歩、Lamportの好みではない出力を得ようとした途端、非常に訳の分からんことになる、ということです。

で、大抵そうしてLamportに逆らおうとした場合に何をしようとしているのかというと、それは、見た目の変化です。

そもそも、この手のことをLaTeXでしたかったら、style fileを変更する、というのが筋なのですが、幸か不幸か、LaTeXのソースの中にTeXのコマンドを埋め込むことも出来てしまうがために、LaTeXのソースの中に\vscape*{5mm}とか\hspace*{-1cm}とか入るとかゆー悲惨な状況(とはいえ、良くやる -_-;)になるのです。

まぁしかし、その人がLamportと喧嘩してよーが何してよーが、普通、外部の人間がその結果を手にする時は写植原稿であったり何だりする訳で、んなこたぁ、本人以外の人間には関係ありません。

先日の日記で、「Cにlintすらかけないのに、何が悲しゅうてHTMLにweblintかけねばならんのか」的なことを書きましたたが、そういえば、通常プログラムの場合は、本人以外の人間にとって必要なのはそれをコンパイルしたコードであって、ソースコードではないのですね。だから結局どうでもイイ。

さて、HTMLの場合です。

結局のとこ、HTMLの場合も(グラフィックス等をサポートしていないブラウザ等に対する必要最低限の配慮さえされていれば)、結局のところ、他者にとって必要なのは最終的な内容であって、そのソース(HTML)がどんな方法で書かれていようと、所詮、そんなこたぁ関係ありません。

つーことで、あ、結局、HTMLの書き方なんざぁ、どーでもイイ訳ですね。めでたし、めでたし。


と、ところが…

ここで検索エンジン等の話が出てくると、話は突然、めでたくなくなるのです。詳細は古瀬さんの『インターネット活用法』でもいいし、私のbitの96年4月号の文章(手前味噌 :-)でもいいのですが、現状では、正しいHTMLがあると助かることは確かなのです。

何か本論にいくまでにウダウダと書き過ぎて気力が萎えてきてしまったので、以下、箇条書き。

  1. 「正しいHTML」というものは「知をハック」するために払わなければならないコストなのだろうか?
  2. それともこれは、やはり技術の未熟さをユーザに押し付けているだけなのだろうか? (技術が未熟であることは間違いない)
  3. そもそもそのためには(HTMLの)ソースを公開するということが前提にあるのだが、非近代インターネット文化の興隆の中で、このような文化がいつまで生き残るのだろうか? (JavaやShockwaveやAcrobatやその次になると、このソース公開の前提は崩れる?)

ということで、分かりませんね。どうすべきなのかも、これからどうなるのかも。

# 説明不足で誤解をまねくかな? ま、いいや。どうせ日記だし。:-)