週末(特に土曜日)は花粉症がひどかった。しむかとおもった。でも会社に行くと非常に楽になるんだな。なぜかというと、私がいる建物は元々半導体プロセスの実験をするために作られたビルで、建物自体の気密性とか空調の仕様が結構バッチグーらしく、多分、花粉が建物の中まで入ってこないからだろうと思われる。実際この建物内にはクリーンルームとかがあるみたいうだし(しかし、何の因果で計算機屋がこげなとこに… しくしく ;o;)。で、そのクリーンルームの中の中にはヒ素とかトリクレンとかが充満してるのだな、きっと。


という訳で(お約束の展開 :-)、昨日ビデオに録っておいたNHKスペシャルを今日観た。

ま、観たからどうだっていうこともなく、結局いつもの通り、「怖いっすね〜。あの処理工場の人達は偉いですね〜。企業/研究機関/病院その他諸々許せませんね〜。でもそうやって生まれた科学文明の成果を享受しているからこそ、薬で花粉症を押さえられるし、こんなことして他人に日記を読んでもらうようなこともできるようになったんですね〜。私は一体どうしたらよいんでしょうね〜。分かりませんね〜」で思考停止してしまうので、しょうもない。

しかし、「自分で自分のシモの世話もできないような奴に生きる権利はない」とか言うとき、対象が大企業とかだと左翼社会正義派ドンピシャ的発言になるのに、対象を老人にしてしまうと言語道断弱者切捨ハンターイ的発言になってしまうのは、なぜなのだろう。

そりゃ、大企業と老人は違うよね。でも、大企業側に立つ/弱者側に立つ、と、他人のシモの世話もすべきだと思う/思わない、は、本来独立した思想座標であると思うのだけど、なぜに世間一般ではそれらが一つの座標に投射されてしまうのだろう。独立な座標じゃないのかなぁ。違うのかなぁ。

自分で自分を考え直してみると、自分の立つ座標上の位置は、後者は「自分のケツは自分で拭け」であることは明らかだけど、前者についてははあまり考えがない。どっちの側に立とうとも思わない、別に弱者の側を気取ろうとも思わない、かな。(大企業に庇護されてて何を言うか、ってか。ごもっとも -_-;)

大学/研究機関/企業/国の庇護(と勿論その内部での自助努力)によって成立していた近世的インターネットは、明らかに「自分のケツは自分で拭く」ものだった。しかし、一般消費者(=「弱者」と定義されるのが好きなようだ、日本人は)相手に商行為を行なうサービスプロバイダが登場した現在、「金取っときながら自分でケツ拭けとは一体何事だ!」という一般消費者の言葉は、団結ガンバロー的文脈に立てば正当なセリフになるのかもしれない。

<脱線>しかし、こないだの番組(もはやデフォールトのリファレンス先はここ :-)で、高橋徹さん@東京インターネットが、「企業は金持ってんだから企業にどんどん使わせてコストを下げる。で、個人がその低コストを享受すればよい」とか言い切ってましたね。みんなそう思ってるのは事実だけど、社長があんなこと言っちゃっていいんですかぁ? いいのか。でも、偉いなぁ、徹さん。(注:この項、皮肉とかじゃなくて褒めてるんですよぉ :-)</脱線>

で、個人的結論は何かというと、シュプレヒコォール的文脈は嫌いだし、それ以上に近世的インターネットに対するノスタルジー(例えば日本における「JUNET幻想」)ひたりひたり状態は大っ嫌いだけど、座標を2つに分けちゃえば、それらとは関係なく、現代においても「自分のケツは自分で拭けよな」と言える訳で、よかったよかった、という。なんじゃそりゃ。


P.S. gonzapさんのこのネタは色々言いたいことあるんだけど、今は言わずに、今月12日発売のbit 4月号が出た後に一発ブチかますことにするっす。

P.P.S. 過去の日記から推察するに、私ゃ、大垣さんと間宮さんと同窓です。で、たぶん、お二人の方が1コ上です。とりあえず、本館は2食のチキンガーリックを喰いながら10年前に卒論書き、とか言っとけば通じるでしょう。:-) > 大垣さん